超時空超巨大小学6年生

ときどき何か書きます。そんなに面白いことのってないよ

生活 20220210

おかずとして鶏肉を主に食べている。

家からいちばん近いスーパーは、安くていいのだが商品が棚から切れてもなかなか補充してくれない。一時期フルーツゼリーがお気に入りのデザートだったが、一度棚からなくなると再度補充されるまで軽く2、3週間は待たなければならない。時間がないときに重宝する冷凍の餃子なんかも同じだ。

一度フルーツゼリーとまったくパッケージのデザインがいっしょの、単なるフルーツのシロップ漬けをゼリーと間違えて大量に買ってしまって超がっかりしたことがある。いや美味しいは美味しいのだけども。

あんまり人気ないから入荷してないのか……? とも思うのだが、棚に補充されれば速攻でなくなる(棚から消えた後、後日タイミングをはかって行ってみても残りわずかになっていることがよくある)のはやはりそれなりに需要があるのではないか。どういうストラテジーが背景にあるのかわからん。

そんなわけで、そのスーパーでは「いつ行ってもほぼ置いてあるし補充のタイミングもだいたい毎日」っぽいものが献立の主力となる。それが鶏肉だ。骨なし皮なしのモモ肉だ。なかったらないで、他のところに行けばいいだけの話なのだけど、1日で2軒もスーパー行くのかったるい。

牛はちょっと高めだし量が多くて使うのが苦手だ。レシピあんまり知らない。豚肉はなぜか何を選んでも骨つきだ。骨はめんどい。

鶏肉はちょっと興にのれば唐揚げにしてもいいし、カレーでもなんでも味付けは何でもあう。

最近よくやってるのがとりあえずぶつ切りにして、ボウルのなかでコーンスターチとよく混ぜてから味付けと一緒に使う野菜を選ぶというやり方だ。フライパンに油を適量そそいで(火はまだつけない)その上にコーンスターチまみれにした鶏肉を置き、切った野菜を重ねる。野菜はボウルに残ったスターチと混ぜてもいい。それから蓋をして火をつけて、ある程度火が通ったら裏返しにして、調味料を加える。醤油味かケチャップ味かカレー味か、その日の気分で。

野菜もとれるしフライパンいっぱいにつくれば作り置きになって次の日の昼とかにも使えるし、楽。

なんで片栗粉じゃなくてコーンスターチなのかというとそれしか手に入らないからだけど、スターチは唐揚げにも使えるし安いしでいまのところわざわざ苦労して片栗粉を買ってくるほどではない。

そもそも白米とおかずという形式にこだわらなければもう少し簡単に食事の用意もすむ気がしないでもないのだが、どうしても食べた気がしなくてね。

とりあえずたまにやってるスターチを使った唐揚げは最近作り方が上達して準備や後始末が苦にならなくなってきた。

生活 20220209

車の運転ねえ……

これ↓読んだ。

omocoro.jp

あとそのブクマページのコメントもじっくり読んだ。

……ふつうにできるけど。平均的です。得意なところもあれば、不得意なとこもあります。均せばゼロです。幸いなことに事故や人に当たったことはないです。

いや得意なところがあるっていうのはおかしいな。別に人より技量が上だとは思っていない。やるのが別に厭ではない、苦にならない、やって難なく期待どおりの挙動ができる、くらいか。反対側から言ってみると不得意なところっていうのはやるのが厭だとか考えた通りの動きがなかなかできないとかそういう意味になるってことか。

まあ不得意なことがあってもそれをやらないで済むように運転すればいいだけの話です。どうしてもやらなきゃいけないとしても……最低でも人さえ傷つけなきゃいいだけだし。

何か言うことあったっけ。そうそう、車の運転って苦手だからやらないとか得意だからやるとかって議論するようなことなのか、あまり分からないんだよね。やりたくなくたって必要ならやんなきゃいけねーわけだし、やりたがっててもモノとか場がなかったらやらなくない? あんまり得意不得意でやる/やらないの選択を決めるとは思えないというか。

運転不得意でしたくなくて仕方がなくて運転あえてしないと決めたとしても、車運転しないと生活できないところだとつらくない? 豪雪地帯とか。俺無理だったわ。

無理して自転車だけで生活してたらひどい目にあったものね。

生活(チャーハン) 20220208

昼時にチャーハンを作ることが最近多い。

ベーコンとレタス、グリーンオニオンを使ったあんまり中華味っぽくないやつだ。中華味じゃないというのは、味覇とか鶏ガラスープの素といった便利中華味つけアイテムが手に入らないから塩味———足して少し醤油味にしかならないからだ。

ベーコンも焼豚なんかが気軽に使えればいいのだが、あいにく売ってないし自作する気もおこらないのでいつでもだいたい冷蔵庫に入ってる肉として使ってる。塩味もついてるし。もともとベーコンは朝食にしか使わず、最後の二、三枚枚になると「これ少し臭いかいだらやばいかも…(嗅ぐのを)やめとこ」と、もてあまし気味だったので消費速度上げる意味もある。

レタスも長いこともてあまし気味の食材だった。剥いて洗って水気を拭きとってやっと準備完了とか道具も調理スペースもそれなりに使うし、思い浮かぶ使い方はサンドイッチやサラダとかそれなりに余裕がないと作るのが億劫なものばかりだ。しかもサラダはいざ知らずサンドイッチにはさむレタスは、モノが無いなら無いで諦められるポジションである。あっ、ひょっとするとサラダもか。ポテサラ(笑)タマゴサラ(笑)マカロニサラ(笑)。語尾にサラってつけてると河童懲罰士に懲罰されるって本当サラ?

最近になってチャーハンを作り出したのはひとえにリモートワークに移行して平日の昼食を家でと作るようになったからだが、長らくチャーハン は 作ってなかった。今のアパートに越してから長らくチャーハンを作ろうと思わなかったのだ。なぜなら中華鍋を持ってないからだ。長年愛用していた中華鍋は実家に置いてきた。

家庭用コンロでわざわざ中華鍋を使うのは火力の点からあんまり向いてないらしいが、使ってた中華鍋はあの3/11の翌日、なぜか買い物に行った東急ハンズで気まぐれに購入した思い出の品でそれ以来使っていたものだ。多分ちょっとでも楽しいことしようと思ったんだろう。もうあんまよく覚えてないけど。そもそもなんであんな時に一駅も離れた東急ハンズに買い物に行ってるんだ私は。

そのときちょうど買い集めていた「鉄鍋のジャン!」の影響も多分ある。まんがに影響される人だ。

そして、チャーハンを急に作り出すようになったのはインターネットに影響されたからである。YouTubeでふつうのフライパンと家庭用コンロで美味しいチャーハンを作るノウハウ的な動画をたまたまたくさん見たからですね。

チャーハン、美味しいじゃん?

中華鍋でチャーハンつくるときに一番好きな工程って鍋に溶き卵をぶっこんで、ちょっと塊ができるようになったらそこにご飯をザバッと入れるところなんですね。それでご飯を崩しながら半液体半固体の卵とよく混ざるようにしてやる。ご飯が玉子で黄色にコーティングされるように作ってやるのがいいんだって———これも鉄鍋〜の読みすぎでなだけなのだが、とにかく中華鍋使ってそれ目指してやると楽しい。アガる。本当に美味しく作れてるかどうかは知らん。とりあえず出来立てならなんでも料理は美味しいよ。

YouTube見て研究した結果、ふつうのフライパンでもそれなりに楽しくチャーハン作ることができそう、となった。のでやってみた。I DID MY OWN RESEARCH! 溶き玉子をフライパンにいれるとき、フライパンを傾けて卵液がたまるところを作ってやるのがコツなそうな。

「そうな」じゃねーわ、実際にやってるんだから。わりと楽しく作れてます。ご飯と玉子がいい感じに混ざってくれる。

卵かけご飯にしてからフライパンに入れるっていう派もあるらしいけど、一回失敗してかららはあんまりもう一度チャレンジしてみようって気になってない。

チャーハン(とりとめもなく終わる)。

生活 20220207

自転車に乗ってどこかに出かける、という生活にとても憧れている。

たとえば、夜の9時とか10時くらいにいきなり甘いものが食べたくなったが冷蔵庫のなかに適したものがない。コンビニで売ってる小さいスイーツ的なものがどうしても食べたいとなったときふらっと自転車で買いに行く、みたいなムーブ。そういうのが今の環境だとなかなかできない。

というか、数年前に引っ越しして今のところに住み出してから基本移動は車で自転車はモノ自体がない。ついでにコンビニもない。少なくとも自転車を使って夜の遅い時間に買いに行けるような距離には。

新居を決めたときに職場の人から自転車をゆずってもらったのだが、もともとその人のお子さんがまだ小さいときに使っていてガレージに放置されていたものだから乗り心地は当然よくない。サドルの高さの調節もあんまりきかない代物で、やってやれないことはなかったのだがなにしろそれ用の工具がないときた。

ちょうど車もなかったし、しばらくはまあそれでも無いよりマシと考えて通勤に使っていたのだが、ものの1週間も経たないうちにパンクの憂き目にあったのだった。

なにしろコンビニが近くにないくらいだから修理に出せるところというものもない。というか、そもそも自転車屋というものがない。これも探して絶対に無いということは必ずしもなかったのだろうけど、なにせ家→職場→スーパー→家→職場→…というサイクルを回す習慣が根付いてしまうとそこから大きく外れてわざわざどこかにある自転車屋を探してなおかつそこまで行くというのがなかなか億劫でできなかった。

そうこうするうちに無事車を手に入れて完全に自転車を直すモチベーションが失われてしまったのだった。おまけに、使わなくなった自転車はアパートのベランダに放置しているうちにいつの間にか消え失せてしまったわけである。わざわざ自分で処分する手間が省けたとこれ幸いに自転車のことは忘却の彼方に追いやったのだった。自転車なんかいらんねーや。

ところが今に至ってまたぞろ自転車がある生活というものに憧れを感じはじめているのである。Covid-19でリモートワーク一辺倒になってそろそろ丸2年が過ぎようとしているからだが、少しでも運動をする習慣をつけようとはじめたウォーキングも同じ道を毎日ぐるぐるしてるだけで新鮮味に欠ける。そして私はそろそろまた引っ越しをせねばならんぬ。この4月くらいに。遅くとも。

転居先地域は幸いにもどこにどう新居をかまえても(自転車を使えば)目と鼻の先にコンビニがあるし、なにより新しい職場ではリモートも誰もやってないうえにどうやら自動車通勤が原則できないらしく自転車の入手は必須だ。

…ディーラーに急かされて新車ももう手配しているわけだけども。半導体的な問題で。

ということで、これから引っ越しをひかえて自転車を日常的に使う新生活が春に待っている。それを想像するのが今はとても楽しい。

まだファイナルガールで消費してるの - "The Final Girl Support Group"読書感想

The Final Girl Support Group (English Edition)

ラジオで紹介されてて聴いてて知った小説、"The Final GIrl Support Group"を読んだのでその読書感想。

作者の人のインタビューで聞いて、それで言ってたことがちょっと気になって読んでみた。曰く、「自分はいい年こいていまだに人が、それも女性が殺される様を楽しんでホラー映画を見てるわけなんだけど、それってちょっと変じゃないか? なんでこんなものに取り憑かれてるんだ? これって健全なのか? そこにどんな意味があるんだ? ってあるとき思ったわけです」だそうな。

www.npr.org

ファイナルガールというのはホラーやスラッシャー映画に出てくる、最後まで生き残る女性主人公のこと。この小説"The Final Girl Support Group"はそのファイナルガールたちが現実にいたら事件のあとどうなる? という内容なのだ。

ファイナルガール(被害者)のことを一番よく理解できるのはやはりファイナルガール(被害者)———ならば、事件で負った心の傷から立ち上がるために必要なのはファイナルガール同士の互助グループ…という考えのもとに結成されたのが表題にもなっているファイナルガール・サポート・グループ。そんなサポートグループに通う主人公、リネット・ターキントンもかつて10代のときクリスマスの夜に家族と恋人を殺人鬼に皆殺しにされ、自分も重傷を負いながら生還した経験を持つ。あるときグループの本拠地となっているキャンプ場で6人もの人間が殺害され、グループ創設者であり「ファイナルガール」の1人であるエイドリアンと連絡がとれなくなってしまう。何者かがファイナルガールたちを狙っている、そう確信したリネットは1人魔の手を逃れるべく行動を開始するが…というお話。

面白いのはこの小説で描かれる現代のアメリカでは、数々のホラー/スプラッター映画は実際に「ファイナルガール」たちが遭遇した大量殺人事件を基にした実話の映画化ということになっているところ。つまり『13日の金曜日』や『悪魔のいけにえ』などといった映画はない、かわりに「サマーキャンプで行った湖のあるキャンプ場で殺人鬼に遭遇してただ1人生還した実話」や「テキサスを家族で旅行中に食人一家に捕まえられてただ1人生還した実話」の映画化フランチャイズがホラー/スプラッターシーンを形成している。ジャンル映画好き創作世界の設定好きとしてはこういうのを出してくれるだけでもう何回も読み返しちゃう。ちなみにこの設定で『エルム街の悪夢』は登場させられないのでは? と作品の概要を読んだときに思ったのだが、実は『エルム街の悪夢』的な事件はどうやら「実際に」起こったらしいことが示されており、クライマックスである重要な役割を果たすことになる。

実話映画化と設定で、一つ気に入った使い方がグループ創設者エイドリアン・キングが映画化権を売却したときの話。エイドリアンは実は史上初の「ファイナルガール」で黒人女性でもあるのだが、自分が生還した事件の映画化にあたって主人公を白人にすることに反対しない代わりにフランチャイズのフルコントロールも要求したという話がでてくる。フランチャイズ権を手中に収めたのは、そこから生み出される利益をサポートグループの運営資金にしたかったから的なことが語られるわけだが、このあたり昨今のカルチュアルウォー的な文脈を踏まえながら読んでいるととてもクレバーな設定のまわしかただなーと思いました。ファイナルガールは事件のあとどうするのか? の一つの答えとして自分の話の映画化権を売る、というふうになっているのもとてもアメリカ文化を感じられて面白い。

主人公のリネットは、他者との関わりを極力避け、いつまた事件に遭遇してもいいように体を鍛え(二度も殺人鬼に遭遇している)、銃を手に入れ、自宅を要塞化し、逃亡の手段をいくつも用意していることが作中何回も言及される。最初読んでいて2018年版『ハロウィン』のローリーみたいな感じかと思って読んでいると全然ローリーと違っててショックを受ける。リネットの自衛策がいちいち詳細に書かれるのだけど、ファイナルガールを狙う謎の敵に対して何の役にも立っていない(常に上手をとられる)のが最初はだめじゃ〜んって思ってしまった。それで、こう何回も結局無駄な努力だった的な話が何回も出てくると、せめて何か一つくらい有効な自衛策は残ってないの??? って絶望感がすごい。1つ先手を取られていたことをがわかるたびにパニック発作を起こしているのが読んでいて痛々しかった。これは作中の描写からそうだとしか考えられないのだけど、リネットはPTSDを罹っており些細なことでもパニック発作が起こってしまうのがさらに痛々しい。考えてみたら(考えなくても)家族を皆失い自分も殺されかけたそれも二度、という状態だったら強い自分負けない自分みたいな感じにならないよね、という理解になった。最近新作が発表された『スクリーム』の主人公シドニープレスコットなんかも事件の経験からタフな女に的な感じになってるそうなのだけど、普通は悲惨な事件に巻き込まれたら、それを乗り越えたタフな女になるとは全然考えられない。

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リネットが生還後もトラウマでずっと苦しんでいる、そしてその姿に「映画のファイナルガールの姿と違ってショック」と自分が思うのは、いかに映画ファン(自分のことです)がファイナルガールつまり暴力の被害者を映画のために消費しているかの答え合わせになっていて読書中ずっと居心地が悪かった。居心地が悪いというのはもう読み進めたくないでは必ずしもなくて、最初に「あんま思ってたファイナルガールとちがうなあ」というのを取り消したい、そんなこと思ってしまって申し訳ないかったとでも言うような気持ちです。それでふと現実のことを振り返って考えてみると、特に女性が被害者になっているさまざまなこと(アレですよアレ)に対してもまるでホラー/スラッシャー映画の登場人物が暴力の被害者になるのを期待したり楽しんだりするように受け止めてないか? と自省してしまうわけです。「ファイナルガール」は最終的に敵に反撃して生還するわけだけども。もちろん映画と現実は違うから、本当に暴力の被害に遭ったらとてもとても映画のようにはいかないな、と。被害に遭った女性を「消費」することの残酷さっていうのはきっとこういうことなんだろうなって読んでてすごく理解できるのがこの小説のいいところだと思った。たぶんそれを狙って書いたのだろうし。殺されるか殺されないかをハラハラしながら読むっていうのがそもそも消費なんじゃないかな〜って作者インタビューの言葉が胸に刺さった。

その他面白かったところとかを何点か

  • 一番最初に出てくるのがredditのファイナルガールスレ(スレではないのだがここはわかりやすく)で、現代〜って感じ

  • 911テロの後、偽のIDを入手するのは非合法になったとかそういうディティールがすばらしい(知らんかった)

  • オバマの大統領当選とか同性婚の導入とか、そういうここ20年(30年?)くらいのアメリカ史を感じられるところもよかった(トランプ時代に足をつっこんでいないのは、リネットの年齢を80年代から数えて三十代後半くらいにするためなのかもしれない)

  • 一番好きなキャラクターはかつてドリームキラーの魔の手を逃れたヘザー。いちいち言うことが毒気があって、クソババア感がある(読んでる最中に思い浮かべたのは「グレース&フランキー」のフランキーことリリー・トムリン)。ああと一人だけ超常の存在が事件に関わっていて下手したら浮いちゃわないかと思ってたのだけど、そこはクライマックスの戦いでうまいこと設定を使いこなしていて印象よい。人によってはこの世界のリアリティラインどうなってるねんて思うかもだけど

  • 消費といえば、この言葉いろいろ不用心に使われすぎてて本来どういう意味か分からなくなることが多いのだけど、他人の姿や行動を見て楽しむくらいの意味として今ここでは使っています。性的消費だったら性的な楽しみや満足を得るみたいな。おまえは消費しているぞっていうのは、それだけでは特に悪いことにはならないけど、人様が殺されたり拷問されたり犯されたりするのを見たり聞いたりして、それを楽しむっていうのはいかにも後ろめたい感じがしてくるじゃない? 殺人事件を消費するのがいかにも批判されるべきことのように語られるというのは多分そういう理由からだと考えるわけです

生活 20220130

洗い物をするときによくラジオを聴いてる。

車の運転中がいちばん内容が頭に入ってくるが(そして聞き取りが一番できている)、今の環境だとそんなに長時間運転しないので1時間くらい連続してラジオを聞こうと思ったら洗い物をしているときがうってつけだ。それか料理をしてるとき。

ラジオをと書いたが機械としてのラジオはカーステレオにしか入ってない。だいたいポッドキャストYouTubeトークもの、それかインターネット放送を流すことになる。だいたいBBCかNPRだ。パソコンのブラウザからでもいいし、タブレットスマホにアプリ入れてるから洗い物を始める直前に触っていたデバイスをそのまま使えばいいので考えなくていい。

最近はいつ聞いていてもロシアがウクライナに的なニュースが流れている。なるほどこれが専門家の言うところの「西側メディアの情報」ってやつねって思いながら聴いてるわけだけど、今日聴いたのは「じゃあ実際両国の市民はいまどう思ってるの」ってやつだった。

特にこの情勢下で現地に住む女性はどう感じているか、何を思っているかという内容だったのだけど、その中に登場したウクライナの退役軍人の人の話が面白かった。現役時代はスナイパーだったこと、志願兵の登録が行われていてその登録を済ませてきた…というような話をしていたのだが、その話をしている最中におそらくその人のお子であろう声が拾われていて「あー」ってなった。「あー」は言語化できない奇妙な気持ちの「あー」です。番組ホストの人が「お子さんはあなたが戦争に行く(かもしれない)ということを理解しておられますか?」的なことを訊いていてさらに「あー」ってなった。

生活

仕事で線を引いたり紙を切ったりしてたんだが、どうもシャーペンの先が曲がってるらしく芯が中でポキポキ折れる。線が引けない。仕事というよりは仕事と称する事実上の図画工作の時間だ。

なので、仕方なくそこらへんにあった適当な鉛筆を使っていたのだがどうも線が太い。太すぎる。文字を書くだけなら好みではないが太くても目をつぶってそのまま使うだろうが、線を引いてそれにあわせて紙を切るとなるとあまり太いのも考えもの。というか、どこにカッターの刃をあてたらいいかわからん。

線を引いてそれにあわせて紙を切るのはしっかりと寸法通りの形が欲しかったからだが、このままではどうもいけない。鉛筆を見ると先の木が剥き出しになっている部分もはっきりと黒ずんでいてやる気も失せる。誰かがそのへんにほったらかしにしていたのを拾ったのだからそれは仕方がないとして、見回してもどこにも鉛筆削りがない。

しばらく鉛筆削りを探してうろうろする人と化したあと、カッターを使えば鉛筆削れるじゃん、俺小学生のとき授業中の手遊びでよくカッターで鉛筆尖らせていたじゃんと唐突に思い出す。いやーもういい大人ですから削った鉛筆の芯で指先真っ黒にしたりするのは勘弁願いたいですわーとかなんとか、問題解決のための素晴らしいアイディアに対していちいちやらない理由を挙げて躊躇するなんかめんどくさい大人がグズグズしだすのだった(そう、カッターで鉛筆を削るのは暇つぶしでなくやろうとすると結構めんどうくさい)。

壊れたシャーペンの替わりもないことだし、鉛筆削らないといつまでたっても仕事が終わりません。削った。

わりと時間かけて鉛筆削って思い通りの細い線が引けるようになったあと、隣の部屋の人が最近には珍しく職場に来ているのを発見して鉛筆削り持ってないか訊いてみた。

ドゥーユーハブエイペンソーシャープナ?

隣の人は中国語(たぶん北京語)と英語の人なのでpencil sharpenerと文字でだけ知ってた英単語を初めて口に出してみた。というか、今の職場ではだいたい英語の人だらけだ。

わりと初めて発音する単語にありがちなこととしてうまく言えない。ペンソーシャープナ。カタカナでも書けるしペンシルもシャープ(ン)もそんなに難しい単語じゃないわりに二度三度言い淀んでしまった。英語話すとき、知ってる単語でも口にする練習をふだんからしてないとあっという間に口が回らないお口の空回りが起きてしまいます。

リピートアフターミー(おわりの挨拶)