超時空超巨大小学6年生

ときどき何か書きます。そんなに面白いことのってないよ

科学論文を読むとは *ツイートを読んだ個人の感想です

以下のツイートたまたま見かけたのでいろいろと考えてしまった。

ここで言ってる「論文」って、科学誌に掲載された査読付き学術論文のことだと思うんだけど、そういうものに対するスタンスとして信じる/信じないは馬鹿馬鹿しいというか、あんまり意味がないのではと思った。なんでそう思うかっていうと、科学論文、というか研究で出された結論っていうのは他の研究結果との関係性が大事だからだ。効きませんって単純に紹介されても、他の論文(実験結果)では効くって言ってるけどどういう実験をやってそういう結論になったの? というのがまず最初に気になるところ。

信じるか信じないか、イエスオアノーで問われればイエスでありノーということになるんだけど。つまり、何らかの実験や調査を行なってそういう結論が出た、というそのプロセス自体は一応「信じる」。信じるというのはどういうことか。それは実験や調査自体が実はなかったとは最初には考えないということです(それやったら単なる捏造で、ときどきそういうことが起きたりもするけれど)。

けれどもその結論が妥当かどうかについては、少なくとも論文をちゃんと読むまでは疑わざるを得ない。

私は医学や薬学についてはまったくの素人で、その手の論文は普段まったく読まないけれど、大前提として「ワクチンはCovid-19に効く」とここではおいておきたい。ここで適切なリンクなり論文なりを紹介してワクチンは確かに効くという研究結果が出ているよと言えればカッコよいのだろうけど、そういうことはできません。だって専門家じゃないし。CDCなりFDAなりが承認してるからまず効くと思ってるだけ。そこは正常なプロセスが働いてワクチンが有効だと科学的に確かめられているんだろうと「信じている」。だから、それと正反対のことを言っている論文があるのだとしたら、それはどういう理路でそういう結論になっているんだろうと疑うことになる。にわかには信じがたい、と。

そもそも何らかの科学的知見というものは、一つだけの論文(研究結果)によって認められるわけではない。ある研究でこういうことをやってみたらこういうことが 分かった。じゃあ他の研究でも同じ結果がでるのか? というのを繰り返してある科学的知見の確からしさを高めていくのが普通なのではと考えるわけです。

一般論として、同じようなことを調べている研究で正反対の結果がでることはよくある。で、ある研究では出ている実験結果がまた別の研究ではなぜ出ないのか、ってことを考えるとき、2つの研究でまったく同じ実験や調査をしているはずがなく、そこに実験結果が出るときと出ないときの違いがあるのでは? と仮説を立てて新たな実験をしてみるというような動きになるはず。

というか、もしそういう結論に至ったならほぼ確実に過去に「効く」って結果の出ている研究をIntroductionで紹介してその研究と他の研究との違いについて言及するはずなんだよね。なんならこれこれこういう違いが本研究と過去の様々な研究にあり、それはワクチンの有効性を確かめる上で本質的な影響があると考えるのに十分な理由であり、今回実験なり調査なりしてみたらワクチンは効かないということがわかるかもしれないと仮説の一つも立てているかもしれない。「ワクチンは効きません」って仮に正当な手順踏んで明らかになったとしたらインパクト大きいからAbstractにも絶対書くはず。

そのへんのことが書かれているかどうか気にしながらその論文読むと思う。 すでにワクチンは効くということは(他の研究で)言われているわけで、なぜ今回「ワクチンは効かない」という結論が出せたのか、研究同士の位置付けが大事なわけです。

それとこれは元のツイートが英語云々言ってるから思ったことなんだけど、そもそも英語で書かれたものなら読む能力のある人、日本に死ぬほどたくさんいると思うんだけど「読めないだろ」っていうのはどういう世界の話なのか。や、英語が読めることと、学術論文を読んで理解するっていう話は別だけど。まあそれとは別にDeep LやGoogle Translateを使えば英語論文読めるんだよっていう主張もときどきみかけるけど、個人的にはそれはあんまり安全ではない読み方だから、補助の一つとして使う分にはいいと思うけどどうかな? とは思う。

なぜ爆笑してしまったのか

 何に爆笑したのか。なぜ爆笑したのか。あるいは、なぜ「爆笑」とコメントをしたのか、何に対してどんな思いをこめて「爆笑」とコメントで表現したのかについて。いまその「真意」を語りたい。

あらまし

 話題の映画『君の名は。』についてこんなトゥギャッターがあったんですね。

 で、例によってこのトゥギャッターをはてブしつつ、他のコメントなんかも読んでたら、こんなコメントがあったのでコメント自体をはてブしたわけですよ。

『君の名は。』を見て感じた気持ち悪さについて - Togetterまとめ

だいたい同意。ラノベ的世界観が世間で難なく受け入れられてるのだなあと。/この種のアニメに対しては常にある程度の諦めと我慢があってそこから作品の評価をしなければならない。ジブリや細田アニメにはそれが不要

2016/09/26 16:50

 こんなコメントをつけたわけです。

だいたい同意。ラノベ的世界観が世間で難なく受け入れられてるのだなあと。/この種のアニメに対しては常にある程度の諦めと我慢があってそこから作品の評価をしなければならない。ジ

爆笑

2016/09/26 18:50

 で、本人からこんなidコールがあって

だいたい同意。ラノベ的世界観が世間で難なく受け入れられてるのだなあと。/この種のアニメに対しては常にある程度の諦めと我慢があってそこから作品の評価をしなければならない。ジ

id:cloq 何がどう爆笑なんですか?他人にそういう言葉を向ける以上、聞かれたらちゃんと説明してくださいね。/家族観は好きじゃないが別の文脈

2016/09/26 19:09

 こう返したわけです。

id:cloq 何がどう爆笑なんですか?他人にそういう言葉を向ける以上、聞かれたらちゃんと説明してくださいね。 - white_rose のコメント / はてなブックマーク

id:white_roseジブリや細田アニメにはそれが不要」と細田アニメを並べてるところですよ! これ以上の説明は必要ですか? 必要ならハイクかブログに書きます/id:white_rose まー書いてみますよ(時間かかるケド)

2016/09/26 19:49

 まあそもそもはてブの個別コメントをはてブするのが特にその人に向けてメッセージを発しているかどうかは個人的には疑問に思わなくもないわけですが(通知もいかないし)、説明しようということになったのですーーー何に爆笑したのか、なぜ爆笑してしまったのか、もう少し説明という話ですね。

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セイマイネーム『君の名は。』観た感想

 『君の名は。』を観た感想メモしておく。忘れないうちに。

 はじめてこの映画の予告編を観たのがいつだったか忘れたが、『シン・ゴジラ』を観に行ったときにはすでにもう何回かは観ていた、と思う。 予告編を観るかぎり、正直あんまり自分から進んで観に行きたいと思うような種類の映画だなとは思っていたが、これだけ話題になっているし日々Twitterや増田でネタバレ含みの感想が流れてくるのをスルーするのはなんだかもったいない気がしてつい映画館に足を伸ばしてしまった。第一、自分の住んでるところには映画館といえばイオンシネマが一軒あるだけで今はもうあまり観たいような映画も残ってない。最近だと『ゴーストバスターズ』が観たかったがちょっと気を抜いているうちに公開は終了してしまった。

 事前に知っていた情報といえば、監督が新海誠であること、男女の入れ替わりストーリーであること、しかしコメディではないらしいこと、どうやら思春期のカップルが一緒に観に行くのに最適なデートムービーとして受容されていること、ぐらいな薄ぼんやりした認識で観に行った。他の何か重要そうなこと、ありていに言ってネタバレ情報も目にした気もするが、それは都合よく忘れて観に行くことができた。ほどよく興味なかったわけである。入れ替わりを話のエンジンにした思春期男女の交流や相互理解(があるとして、それは)はそれなりに爽快かつ切ないだろう、新海誠特有の背景と今風のアニメキャラクターの取り合わせは観ているだけでそれなりに退屈しないだろう、RADWIMPSのテーマ曲も映画を観る前と後では聴こえ方が変わるだろう…とは思ったわけだが。映画自体にはあまり興味を引かれなくて、みんなが観ている(そしてそれなりにその映画について何をかは言っている)というその一点だけが唯一興味を持った点だった(みんな、とウカツに書いているけどマジで自分の身の回りの人が観ていてちょっとビビってる)。

 もとより日本の商業アニメ最前線みたいな絵柄のアニメーション映画には興味なかったわけだけどはたしてーーー。

 まず映画のオープニングで驚いた。これはまるでテレビアニメだな、と。思わせぶりなモノローグから始まってこれからの展開を思わせるような絵の連続からして、最後はここに繋がるんだなと思って観ていたわけであるが、主題歌のかかるまさにアニメのオープニング。細かいところは忘れてしまったけれど、主題歌に合わせて流れる映像はその編集の仕方がものすごく「アニメ」っぽい。強調される髪を結んでた紐をほどく動作とかあれやこれやとか、ここがキーですよと言わんばかりに特徴づけられるのが、まず始まって感じた違和感でありこの映画の特徴なのかもしれない…。よく見ると画面のサイズもふつうの映画と違うことに気づいた。これはもしかするとお家のテレビ画面やPCモニターと同じアスペクト比? 俺は正しく「アニメ」を映画館に観に来ているんだなあと思った。

 瀧と三葉が入れ替わり現象を認識して、お互いに交流を深めていくところはかなり面白く観れた。いつかのタマフル宇多丸が「それまで分かり合えなかった二人が、相互理解の入り口に立つところが映画の最もときめく瞬間」みたいなことを言っていたが、これがまさにソレだなあと思った。互いの立場状況を認識し、意思疎通の方法を開発し、理解し合っていく(もしくはその第一歩を踏み出す)。このくだりに入って「あ、この調子でずっとこれを観続けていたい」と映画が始まってからようやく思えるようになった。  そこに至る前段階は観ててかなり辛かった。ちょっと前に増田で話題になった「映画とかで主人公が恥をかくシーンを観てられない」ってやつだ。男女の精神的入れ替わりが起これば、それは必然的に起こってしまうだろう。というか、別に男女でなくてもいきなりまったく知らない人のフリをしなくてはならない状況になったら、周囲の状況にどうしても合わせられなくてふるまいを失敗してしまうだろう。それは、この映画が最初からそういうことが起こる映画だという時点で避けられないところではあるけれど。あと、ベタに男が精神だけ女性の体に入ってしまったらやっぱり胸は揉むでしょ? みたいな描写はいまさらながら観てて「どうなの?」とは思った。いや、三葉 in 瀧の方の描写も基本的には「どうなの?」と思ったわけだけどさ。もっと深刻に考えてほしい。いきなり自分の性別変容して(いるようにしか思えないと思う)いたら、最初注目するところはソコ? 俺自身は男だから自分の身体にない部位は興味あるけどさあ、ソレって本当に自分の身体にあってもそこまで興味持てる? みたいな。三葉 in 瀧でトイレ問題が出てきたよ思いきや「ものすごく恥ずかしかった」というような描写で解決してしまったところとか。すごくディティールが気になりますね。それを変に凝って描いたりするとコメディっぽくなってしまうのだろうか。うーんやっぱりこの映画キレイキレイであんまり興味持てない。

 この映画、三葉と瀧の入れ替わりが話を進めるエンジンになっているわけだけど、それが二人の恋愛関係を形成するのに奉仕しててそれぞれのキャラクターがどう変容していくかっていうところには働いていないっていうところは観終わって気になったところ。例えば、三葉の父親との確執は話に関係あるようで関係なかったように思える。瀧と入れ替わることによって、あるいはその経験を経て三葉が父親との確執を乗り越えられる、解消するみたいなことが起こるのかな、それが最後の隕石落下でのいかに村の人々を避難させることができるか、みたいな構造になるのかなと思って観てたわけだけど、それがなかったのには随分と驚かされた。三葉が入れ替わりを経て得たことって瀧と出会って(出会ってないけど)好きになったくらいしかなくて(本当は九死に一生を得てるわけだけど、それはまあいいじゃない)、これって本当に青春恋愛映画なんだなあと思った。瀧くんの方もだいたい同じで、こっちはさらに元々の生活で抱えている問題はないときた。奥寺先輩のことが好きだったけど三葉のことが好きになりました、は恋愛映画としてはむしろそのルート宿命づけられているようなもので、やっぱり彼も入れ替わりを経て得た精神的なものって「三葉のことを好きになった」くらいしかない。入れ替わりを経て(別に恋愛関係にならなくても)それぞれが抱えていた問題が解消されるみたいな話、ありていに言って精神的に大人になる、を観る前は想像していたけど、そこは良くも悪くも青春恋愛映画って感じで、なるほどここがウケているポイントのかな、と思った。

 入れ替わっている途中で時間のズレにどうして気づかないの? っていうところに関しては劇中はっきりと「夢を見てるような〜」というふうなセリフが言われていたのであまり気にならなかった。観てる最中の感覚的なものと理屈は違うかもしれないけど、寝ているときに見ている夢ってディティールの妙さはあまり気にならないし、なかなかどうして、時間のズレに気づかない説明としてはまあ一本筋は通ってる。そんなものか、と思いながら観れた。瀧の認識が揺らいで、三葉のつけていた日記が読めなくなるあたり、糸守の人々が実は全員亡くなっていることが分かるところはもっと怖くしてくれた方が好みだけど。徐々に「あ、もしかするとそういうことなのかも」っていう助走があったのでそんなにショックを受けれなかった。急転直下で文字通り世界が暗転するみたいな感じの方が好きだな。

 タイトル通り、名前にこだわった作品ということで観てる最中ずっと頭に浮かんでいたのがブレイキング・バッドのこのシーンだ。

www.youtube.com

 と思っていたらこんなNaverまとめがあって、笑った。いや、これタイムラプスがなんとかとか言ってるけど、『君の名は。』と『ブレイキング・バッド』の関わりはそんな表面的なものだけじゃないないと思うッスよ。

matome.naver.jp

 劇中、てっしーもハイゼンベルクに言及(エベレットの多世界解釈と言ったことはハイゼンベルクと言ったも同然)してたし、田舎で行き詰まっている主人公が違法なモノを作って大儲けっていうアイディアを出すってところも、もはや『君の名は。』というタイトルは"Say my name"と対応させてつけたとしか思えない。ファイナルシーズンの合言葉は"Remember my name"だし。

 You're goddamn right.

「たのしい」映画『アイアムアヒーロー』観てきた。

 映画『アイアムアヒーロー』観に行った。
 原作は「どうやらゾンビまんがらしい」ということは知っていたが、残念ながら未読。
 花沢健吾の他のまんがもまったく読んだことない。同じ作者でこれまた映画化された『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は観に行ったけど。そういえばあの映画、主人公がトラヴィス・ヴィックルになっていたな(主に髪型が)。トラヴィスルックになった主人公の等身大ポップが映画館に飾ってあった気がする。あれが顔ハメになっていたら柄にもなくセルフィしてしまってた気がする。いま観返したらリリー・フランキーに何か不安な影を見てしまうのだろうか。
 ともかく、まんがの方は未読だったがタクシードライバー、ゾンビ、ヒーローというキーワードにつられて観に行ったわけである(タクシードライバーは別作品だけど)。

 ゾンビ映画というジャンルが大好きなのである。
 この映画、まんが原作の実写化映画であると同時にゾンビ映画というジャンル映画でもあるのだ。だから完全にゾンビ映画として観に行った…ゾンビ映画というつもりで観て大事故になってもそれはそれで一興、「たのしい」ゾンビ映画であったら一儲け、興が乗れば映画観た勢いかって原作のまんが一気買いもするのもよいかなと思ってチケット購入に相成ったわけである。

 ーーーはたしてそれで「たのしい」映画体験ができたかというと、うん、とっても「たのしい」ゾンビ映画だったよと観終わってしみじみ思った。

 ここで「たのしい」とわざわざ括弧付きで書いているのは、世の中には観て「たのしい」映画とそうでないものがあって、それは「面白い」映画かどうかってことと分けて考えたいという姿勢の表れなんである。つまり、「たのしい」映画ではあるが「面白くない」映画はあるし、「面白い」が全然「たのしくない」映画があるって自分は思うわけである。
楽しければ面白いんじゃないの? と考えるのがシンプルだし、実際自分もこうやって好き勝手にいつまでも自分の感想だけを書いていい場(つまりコミュニケーションの場じゃないってことだが)じゃなきゃわざわざコムズカシイこと言わないけど、どうやら自分のなかではそういうことになっている…とまあそういうことなんですね。

 面白い映画とは何か? それはとりもなおさず「面白いって何?」ってことなんだが、多分それは「新しい」ってことなんだと思う。
 大学とか(「とか」だ。大学でなくてもいい)で卒業研究なんかやったことのある人なら指導教官に一度は「そのテーマって何が面白いの?」と言われたことがあると思う。あれは「そのテーマは何が(どこが)新しいの」だったり「それやってどういう新しいことが得られるの」という問いかけに他ならない。今までと同じことをやっているものは「新しく」ないしイコール「面白く」ないのだ。 ここで研究とかそういうカタイことに限らず、「新しい」と「面白い」は映画に対しても繋がるのである。
 たかが映画なんだから理屈こねず観て面白いと感じたら素直に「面白い」と言ってもよさそうなものだが、ちょっと待ってほしい。というか自分は勝手にそこで止まります。自分以外の人はどうぞご勝手に。  でもそうじゃないですか、イチからジュウまで「それ前に観たことあるし」って映画、観てる最中何一つ面白くなくないですか? 当然「前に観たことあるし」っていう要素は個人個人違うから面白いもヒトによって違ってきます。「前に観た」けど今回のはもっとハードにキメてていいですねとか、ちょっと前のアレは個人的にはキビシかったのでこれくらいがちょうどイイよっていう「新しさ」もあるわけで、だから何が面白いかは十人十色、ウカツに映画の感想とかよく知らん人と話せませんわー共感全然成り立たねえですわー…と思うワケです。

 で、『アイアムアヒーロー』が面白いかどうかはさておくとして、非常に「たのしい」映画であることは(少なくとも自分なかでは)確信をもって言える。人にソレを言う気が引けないという意味で。じゃあ面白さとは別の意味で「たのしい」ってつく映画って何? と言われるとそれはつまり景気のイイ人体破壊描写があったり、車や建物がポッコンポッコン破壊されたり、度を越した変態やキチガイが出てきたり、血がブシューッとこれまた景気良く吹き出したり、あとおっぱいとか筋肉…お祭り要素がある映画が「たのしい」ンじゃないかなと思うわけです。ヒエーッそんな残酷な映画がたのしいんですか!? と思うかもしれないが、大事なのは「お祭り要素」というトコロで、何か普段見れないものがそこにあるというのが「たのしい」と、そういうことになります。何か普段見れないものというのは映画によってちがっていて、素晴らしい歌やダンスであるとか、美男美女が恋愛しているサマであるとか、その恋愛が破局するサマであるとか、チョー美味そうな料理であるとか、なんかそういう見世物要素が映画を楽しくするという意味だと考えれば、あの映画とかその映画とか楽しくないッスか!?
 で、(何が言いたかったのか忘れたのでもう一度書く)『アイアムアヒーロー』は非常に「たのしい」映画だったわけです。
 散弾で吹っ飛ばされるゾンビ(ZQNと言うらしい)の頭部、頭のイケナイところ打ったかのようなゾンビの痙攣やキモい動き、一見して「あっ、あたまおかしくなった人だ」とわかるショピングモール引きこもりグループのリーダー、ゾンビに勝手に名前をつけて観察、美少女、命の価値がデフレ状態に突入した群衆パニック、序盤で血まみれになって死ぬマキタスポーツマキタスポーツが無残に死ぬ邦画は傑作の法則)、バカでアホで欲望むき出しの凶悪な若者…とうっとりするがところ盛りだくさんの「たのしい」映画でした。

 で(何回めだ。だがしかしか)、面白いかどうかというとこれは難しい。よくホラー映画はその時代を反映した恐怖が意識的・無意識的に表れている、なんてことが言われるが(言われるのですよ?)、『アイアムアヒーロー』にそれがあるかというとそれは多分描かれているゾンビ像やゾンビパンデミックが起きた日本社会の描きかた、キャラクターの行動…というところに着地するのかなと思う。それが映画の手柄なのかそもそものまんがの描きかたからしてそうなのか、っていう切り分けは原作未読だからわからないけど。
 ただまあ出てくる原作の設定からしてそうなのかもしれないけど、描かれるゾンビ像がこれまでと違うというのは明らかに新しくて面白い。ロメロの『ゾンビ』でゾンビがショッピングモールに集まるのは生前の記憶がそうさせているのだ、という説明をもっとパーソナライズしたようなそんな新しいゾンビ像。そりゃ生前の記憶って言ってもヒトによっていろいろありますわよねという理屈で出てくるゾンビは実に多種多様。走るヤツもいれば歩くしかないヤツもいるし、強いヤツもいればそうでないのもいる。総じて振る舞いはキチガイじみているのは生前の有り様が一人一人違うからで説明のつくヤツもいればぜんぜんワケわからんヤツもいる…というような。ここらへん、ゾンビホラー映画として『アイアムアヒーロー』を観るときに(それが原作まんがの手柄だとしても)「おもしれ〜」と思ったポイントなわけです。で、それと同時にもし何かホラー映画としての時代性みたいなものがあるとしたらそれはやっぱりここらへんかなあと思うポイントでもある。
 平山夢明の小説に「いま、殺りにゆきます」というのがあって、これは映画化もされているんですが、『アイアムア〜』に出てくるゾンビってこの小説に出てくる様々なキチガイによく重ねて見ることができるのではないかと思います。「いま、殺りにゆきます」(通称いま殺り)に出てくるキチガイは実に様々な行動で主人公を脅かすのですが、それをするのに理解が一切理解できない感じになっているのですね。なんでそんなことしたいの!? という。ただむき出しの欲望というか妄執というかそういうものが常識的な人々に向けられるとき、何が自分に起こるかどうかとは別の恐怖がある、理解できない巨大な意思がそこに実在する、という怖さ。そんなのがいま殺りのキチガイなんですが、これってものすごく『アイアムア〜』のゾンビに似ている。喋れるし行動もできるけど人間が人間たらしめている脳の大事な部分がバグってしまった怖さ、バグっているからこそ漏れ出てくるプリミティブな思考の残滓。ものすごく怖い。

 あ、ホラー映画としての時代性か…あえて言うならそれは、人間が人間であるというオブラートがなくなったときの個性なんじゃないかと、こう思うわけです。
 ツイッターでもFacebookでもまとめサイトのまとめられたコメントでもなんでもいいんですが、あれらは人間の言うこと本当にとよく似ている。いや実際人間が発したメッセージであることには間違いないのですが。そこに人間性がどれだけ感じとれるかっていう話になってくる。よく見ませんか? あなたそれ近しい人の前で同じこと言えますかっていう発言を。まったく他者に対する共感や想像力を欠いた残酷で無慈悲で人間を人間扱いしていないかのようなそんな発言を。何かに対して機械的に同じようなことを言っている(それはたいていあまり好ましいものとは言えない)、なんでコイツそんなことを言うんだというメッセージを。ネット時代の現代性がーーーと話を進めていくと薄っぺらい現代社会批判みたいになるので嫌ですが、つまり我々は人間が人間と分かり合うためのコミュニケーションの手段を用いて他者との分かり合えなさを認識してしまっていることになる。そう他者とは結局理解できないもの、「人間」を辞めてしまっているモノは理解できない、恐ろしいモノであるということなんじゃないでしょうか。大泉洋の恋人はディスコミュニケーションの末にゾンビ化してしまってるし、マキタスポーツのチーフアシはこれまでの世間で人間扱いされていなかったことの裏返しとして真っ当な人間(ちゃんとした漫画家だ。妻子もいて不倫もできる)マキタスポーツをぶっ殺し、ネットの書き込みに共感して「これからは俺たちの時代だ!」と人間社会の終焉を寿いだのだと思いました。
それが本当に現代性かと言われると書いててなんかちがくね? と今まさに思っちゃうけど。

 概ね「たのしい」映画であるとは思うのだけど、不満に思うこともなくはない。

  • 上映時間長すぎ! 開始30秒くらいでもう社会がしっちゃかめっちゃかになっていたザック・スナイダーの『ドーン・オブ・ザ・デッド』とかと比べるとはやくこんなクソ社会ぶっ壊してくれ! と思うことしきり
  • いよいよパニック状態になってからの大泉洋がうろつきまわる街の光景、あんなにいっぱいの人いったいどこにいたんだ? ってくらい突然の大パニック。角を曲がるたびにどんどん人が増えていくのはなんか不思議〜
  • タクシーに乗ってからの一悶着、すごいがんばってるカーアクションシーンだけどなんかその前後含めて不自然…風間トオル議員のセリフもなんかとってつけ感否めない
  • 有村架純タンが直撃ゾンビ地獄拳を繰り出すところだけなんか別の映画みたい。というか多分原作にある要素なんだろうけど、半ゾンビ状態云々はこの一作に限っては特にいらなかったよーな
  • 長澤まさみ看護師のセリフまわしがなんか変。キャラ付けなのか役作りが変ななのか、なーんか違和感あるんだよなあ(予告編でも出てくる)
  • これも原作要素だから仕方ないのかもしれなけど、この映画主人公を主人公たらしめるためだけにショットガンずっと持たせているというような見方もできなくない…日本では明らかに異物である銃を持っていることの特異性みたいなことがちゃんと処理されているのかいないのか、原作未読だし「主人公はそういう設定」って完全に頭にインプットされているからもうよく分からない
  • 中田コロリ先生は本当にただ出しただけだな! 原作で片桐仁クリソツだからってべつにあいついなくてもいいだろ!
  • でも徳井優が見せたロレックスの使いかたとか、ああいうところは本当いいよね
  • ショッピングモールで出てきた高飛び選手のZQN強すぎ! でもアイツ『ランド・オブ・ザ・デッド』のカリスマゾンビっぽい存在感があっていいよね
  • そもそも大泉洋有村架純タンがなぜ富士を目指すのか説得力なさすぎ
  • ホラー映画ではありがちな、エンドロール後の厭フッテージがあると思って粘ったけど特にない! 続編への煽りもない! もっと見たい(原作はもっと話続くんだろう)!

ボクは文章作成が(あまり)できない

言い訳がましいけど書いてこう。 わたし文章書くのがとても下手。

毎回このブログ書くたびに、だれも読まないだろうなと思って投稿してるわけですが、どうやら反応があるみたいでそこはとてもうれしい(コメント、ブクマ、スターありがとうございます)。

けれどブコメとか読んでみるとなんでこんな反応なんだろうっていうのも正直なところです。 不思議なこと言われてるなあ、と。

あ、不思議っていうのはこれ読んでそうくるか? なんでそういうふうになるんだろうっていうわたしの見込みちがいからくる思いです。

わたしはこれを書いたはず、というのを勘違いしているようなのです。 何かを書けば自分の思いどおりの反応が返ってくるなんてそれこそ思い上がりだけれども。

後から読み返してみると自分がこれを書こうと思ってのせたはずのものが欠けていることにも気づく。 そこをクリアしたとして……自分の書いたものに何があるか、自分さえ分かっていればいいとは思うのだけれど。 まず、そこができていない、というのが悩みどころなのかも。しれない。

ブログなんて自己満足でしかないのだから、そもそも何も気にする必要はない、という立場もある。 けれど。

  • 自分が何をいいたいのかはっきりさせよう。
  • 何を伝えようと書こうとしているのか、分かっておこう。

たぶん、わたし文章があまり上手くないんですどうやったら書けるようになりますか? って聞かれたらまずそう答えると思う。 けどそんなこと考えていたらわたし文章、書けないでしょう。少なくともこれを書いている今がそうだ。 わたし一体何を書こうとしているのかぜんぜんはっきりしてない。

文章が書けないからブログ書かないって考えはまっとうだ。 何を書いたらいいか、何が書きたいか分からないなら、書かなければいい。 ブログは自己満足。というか、そこでいつまでもうんうん考えこんでいるくらいだったら他のことしているほうが有意義だし時間がもったいない。

けれど。

ブログ書こうと思いついたのに文章が書けない、書きたいことが何なのかはっきりしないというのは本当にそんなに問題なのだろうか。ときには歩くことより走ることも必要だというし。

いやーーーそもそも、歩いているのだろうか。 立つこともできていないまま走って、偶然前に進んでいるだけなのではなかろうか。

ほらいまだってどうどうめぐりのようなことをまったく自動書記的に書いてとうとう1000文字近くまで書いてしまったじゃないか。 文字なんてキーボードさえ押せればネコだって書ける、けれど。

これを「公開する」ボタンを押してまたwebに公開するのには明確な意思がいる。 ネコだってキーは押せるけれど、web上に発信するのは人の意思だ。

わたしはネコではないのでこれから「公開する」ボタンを押す。 けれどこの上に書いてある言葉はネコが入力した文字だ。

ネコがいつわたしに代わったって? それは謎だ。

「原作至上主義者」の名を背負って。信者による意識の低い映画叩き問題

 よく考えたらこのブログ、実写映画版寄生獣のことしか書いてない。
いや……よく考えなくてもそうか。

 実写映画版寄生獣の「感想」書いたとき、ブコメなんかで私が気になったのは「原作至上主義者」「原作信者」っていう反応でした。
そういうように言われるのは、くだんのエントリのほとんど大部分を占めるのが原作からの変更点に対するネガティブな感想だったからだと思います。
実際わたし、後編にあたる『寄生獣 完結編』を観に行く前には「信者だから観に行くよ!」なんてことも言いました。

 はい。わたしは原作まんがの信者です。

 もちろん完結編を観ての感想も、基本的には原作からの大小様々な変更点に対するネガティブなものだったのですが、映画終盤のある重要なポイントにはあまり触れませんでした。少なくとも、感想として書いた量はそれ以外の点についての方が多いです。

 そうしたら、こんなエントリが話題になったのですね。
 「寄生獣 完結編」終盤の問題について

 わたしこのことについは前面的に同意しますし、実際観たときには呆れという感想しか持ちませんでした。ふざけんな、バカっていう。
 でもね……このエントリの最初のところが気になったんです。

私は原作「寄生獣」にリアルタイムで接してファンになり、待ちに待った映像化の実現を心から喜んだ者の1人です。決して大作をしたり顔で評する評論家崩れや、原作との細かい差違をあげつらう原作至上主義者のようなことをする気はありません。実際、本作も今回問題にしている一点さえなかったら、映画向けに改変された部分を含め、原作と同様に全力で支持していただろうと思います。ただ、この一点は作品全体への評価を揺るがすほどの問題を内包しており、これはきちんと意見表明すべきであろうと思ってこの文章を書いています。

 わたし、原作信者なんですけど!!!
 まあこれは別に特定の誰かに向けて言ってるわけじゃない、ということは分かっているけれど、「原作至上主義者」という言葉を見てピクピクッとわたしのなかの何かが反応したわけです(信者特有の被害妄想)。
 何かを受信した結果だとしても、映画が原作まんがから違っていることのみを問題としてネガティブな感想を書いたわけではない、ということはわたし自身への戒めとしてここで書いておかねばなるまい、とそう思ったのです。

 原作信者がそれの映画化作品に対して思うことの一つとしては「原作のスピリットが出ているか」「原作のメッセージに対してどのようなアンサーが出されているか」という点だと思います。……スピリットやメッセージ、なんて言葉は使うのにちょっと気恥ずかしい感じがしますが(特に‘原作の’なんてつけた日には)。
わたしの実写版に対するネガティブな感想も、様々な変更点によってどのように原作のストーリーやメッセージが解釈されるのか? というところに還元されます(少なくともそのような感想でありたい)。
 信者としてはもちろん原作のビジュアルや演出、台詞が実写で再現されることに喜びはあるわけですが、それ以上に監督の解釈によって原作をもう一度新しく味わえるというところが醍醐味なのだと思うわけです。

 終末映画だったロメロの『ゾンビ』がザック・スナイダーの『ドーン・オブ・ザ・デッド』でサバイバルアクションホラーな娯楽作になったように。
 超常ホラー小説だったキングの『シャイニング』がキューブリックによって狂気人間サスペンスになったように。

 原作に思いれがあるからこそ、映画になったときにどう変化するかが面白いということなんです(わたしシャイニングは映画の方をさきに見て好きになったクチですが)。
 原作信者が別のメディアになったものをみてネガティブに思ったり怒ったりするのは、その別メディアになった際の変更が原作のスピリットやメッセージをどう捉えた結果そうなったのか、という点につきると思います。その点への感度の差が原作信者(原作ファンって言ったほうがいいかな)と「おまえなんて単なる信者じゃないか」っていう人との距離感になる。

 大きな変更点も細かい変更点も大事なんです。大事に思うからこそ、変更によって新たなモノに出会えたとき、長年自分のなかであたためて反芻してきた原作のイメージを超えたものを提示されたとき、いい映画になって良かったな思えるんです。

そういう映画独自のメッセージやスピリットをまったく無視して「原作とここが違う!」ってところだけ単に羅列して映画を批判するのってーーー有り体に言って「意識低い」っていう表現がしっくりきます。ただ、そういう意識低い叩きが映画への批判を占めているのかと言うとそうではなくて、きちんと読むところを読めば映画のメッセージに対する批判としてそういう変更点にネガティブなことを言ってる、というのは無視してはいけないと思うのです。その批判が映画を観ていない人の伝聞であったとしても。
 「本当であればこれは大変な問題ですよ」っていう若干それ自体が問題のあるようなフレーズに置換されるのだとしても、実際に観て変更点に対してネガティブなことを言ってるわたしのような立場としてはまったくそのとおり、問題なんだよって言うしかなのです。みんな映画観てね。    うーん、タイトルでは勢いのある感じになっちゃったけど、なんか中途半端な感じになっちゃったなあ……そうそう、今回の寄生獣クライマックスの展開問題をみて思い出したのは『ウォッチメン』でも同じような問題があったなということです。
 ウォッチメンってなんじゃらほいっていまさら書く必要もないような気もしますが一応書いておこう。
 『ウォッチメン』はもともとアメコミでは革命的作品ということで長らく映画化が待望されていたのですが(コミックの出版は1986年)、紆余曲折を経て2008年に映画化されました。このあたり寄生獣によく似ていますね。

 御多分にもれずこのウォッチメンも原作のコミックスから様々な変更点を伴い映画化されたわけなんですが、それでも公開時には「あの原作をよくここまで忠実に再現した!」なんてことがちらほら言われていました。監督のザック・スナイダーからしてこれまたコミックが原作の『300 <スリーハンドレッド>』でここまで忠実に再現するのかって評価された人なんですね。
 で、この映画原作ファンから「原作と違う」故に批判された点でわたしがなるほど! って思ってポイントは

  • ロールシャッハやDr.マンハッタンはかなり原作準拠な造形なのにナイトオウル二世や特に、オジマンディアスがスゴイ違う
  • Dr.マンハッタンの質疑応答のシーンと、ナイトオウルとシルクスペクターがチンピラをボコボコにするシーンが重ねられて描写されなかった
  • イカ

なんですね。

2番目に関しては、これはたとえばラブシーンの盛り上がりに合わせて火炎放射器が火を噴くとか、ここまで再現するんだったらそれもなんか工夫でできんだろ! っていうポイントで、無かったことは非常に残念だけれども「尺とかの関係」で出来なかっただろうなあ仕方なかっただろうなあっていう自分なりの納得はできます(ないめんかって言うんだっけ?)

オジマンディアスの造形違いすぎ問題に関しては、これは実はウォッチメンという話のわりと根幹に関わる部分なのですが人の容姿についてとやかく言うのってホント最低(倫理観)だと思うので、あまり言えません(ホントは論理のすり替え。そういう役者を選んだ責任が監督にはある)。

で最後のイカ。これクライマックスの展開に関することなので、実写版寄生獣にとっての後藤問題といても過言ではないのです。

イカはしかし映画では別の「同じ機能をはたすもの」に置換されていました。……ビジュアル的に設定的より現実的と思われるようなかたちで。
けれど原作ではイカはイカであるべき必然性があってイカになっていたので、その置換がはたしてウォッチメンという話で同じ機能を果たしているか、原作を読んでいる人だったら明らかにその瑕疵に気づいてしまうものだったのですね。

イカと新一の掴んだ棒の先についていたモノ。

こういう小さな変更点こそまんが(コミックス)の映画化作品で大事なところだと思うんですけどね。

『寄生獣 完結編』観てきた。その映画には恐怖と、怒りと、愛がーーーあったのか?

 タイトルは思いついただけで別にそんな疑問はまったく浮かばなかった。
 『寄生獣 完結編』観てきた。


「寄生獣 完結編」予告 - YouTube

原作ファンとしては、前編は「残念」

  11月の前編『寄生獣』を見たときには「オマエ(山崎貴)に監督をされて、残念」なんてエントリを書きました。

 エントリのタイトルから分かるようにわたしは今回のこの映画化には大変不満です。なぜそのように感じたのか。それは、わたしが「寄生獣」というまんがの大ファンであることだけが理由ではありません。確かに、まんがやゲーム、小説の実写映画化にはつきものの、原作からの様々な変更は時に原作ファンを失望させます。女性/男性に変更されたキャラクター、削除されたストーリー、そして走るゾンビとイカ……多くの「実写映画化」作品がこのような点で原作ファンから批判されます(おっと、走るゾンビは実写映画化作品じゃなかった)。

 原作からの様々な変更点はしかし、映画化するにあたっては理由があって行われているし、必要なことではあります。それは分かっています。「原作」は映画のために存在しているわけではないですし、関わっている人も違う。作品を通してのメッセージも当然違う。映画は映画として原作とはまた違う楽しみ方をさせてくれればいいし、映画がどうであれわたしにとっての原作が変わるわけでもない。わたしにとって面白くない映画がある、ということが1つ確認できただけ、とそんな風に捉えておけばいいのです。少なくともわたしがわたし自身にだけ求めることのできるモラールとしては。

 でもね、やっぱりそれだけじゃ寂しいんです。

 映画は娯楽の王様だ、なんて言葉があるかは知りませんが「映画化」と聞いて心躍らされる原作ファンは実際少なくないと思います。まんがやアニメ、小説、ゲームが映画より低位のエンタティメントであるとは微塵も思いませんが、それでも字や絵(と音)でしか表されていなかった物語が実在しているかのように見せてくれる映画(実写映像化)には特別な気持ちがもたざるを得ません。何より、わたしに関して言えば、『寄生獣』は原作まんがのファンであると同時に映画全般も好きということがあります。好きなまんがや小説が実写映画になった様を想像してあれこれ楽しむのはわりと誰もがやったことある遊びだと思います。

 『寄生獣』の実写映画化、なんて心ときめくフレーズでしょう。

 それで、前編を観て思わず書いてしまったのが上述のエントリです。大小不満なところがあったなかでわたしが特に1つの映画として不満を持った点は次の2点です。

  • 「母性」を物語のなかで重要視するあまり、キャラクターの行動や偶然起こることとが不自然に見えてしまった点
  • 映画の最後でパラサイトと戦う(一匹でも多く倒す)決意を固めた新一、でもどうやって?
  • わたしは原作を読んでいるから(あ、いまのところあの説明省いたな)ってわかるけれど、それ省いたらダメだろってところがいっぱいあったところ

 『完結編』を観るにあたっては、こういうところに注意を向け鑑賞しました。

 

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