超時空超巨大小学6年生

ときどき何か書きます。

『寄生獣』見てきた。オマエに監督をされて残念、という気分

寄生獣』観てきた。


『寄生獣』予告編2 - YouTube

開始早々、「地球上の誰かがふと思ったーーー」というあの最初のモノローグを、田宮良子(深津絵里)が言うところから俺は不安だったんですよ。予告観たときから分かっていたけど。

寄生獣」って漫画は、最初のあのモノローグで寄生生物が出現したところを描いていることろでよく誤解が生まれる。
連載漫画だし、岩明先生が描いているうちに最初にあったテーマは多分、変質していったのだと思っていた。
地球とか、生物全体とか、環境とか、所謂‘エコ’みたいな言葉で表されるような、人間と自然の対立から、「我々は何故生きているのか」という実存を問うテーマに変わっていったのだと。
それは「考える寄生生物」田宮良子=田村玲子が自問のすえに「この種を食い殺せ」から人間の行動を理解するまでに至ったことに重ね合わさる。

だから、いくら原作通りといえ「地球上の誰かがふと思った」のモノローグを田宮良子に語らせあまつさえ同じモノローグを劇中そのまま言わせるのには非常に、非常に理解に苦しむところだった。

というか、そのモノローグを広川と後藤との会話で出すのはなんか不自然だろう。
田宮良子が自然環境問題啓発ビデオみたいなのを見ながら唐突に言い出すなんて、テーマ自体を言わせたいがために無理に言わせたみたいですごくブサイク。
聖書とかからの引用でもあるまいし。

ともかく観ているこっちとしては不安に思うことばかりで映画は進んでいく。
あ、不安っていうのは「やっぱり予想通り予想を超えてこの映画ダメなんじゃあ…」という予想が確実に現実のものになっていくことに対する気持ち。ね。

寄生生物がまるで深海から来たかのような描写。これも不安だ。
だいたい、海からやってきたら脳を奪う前の寄生生物が何の生物にも行き合わず干からびて死んでしまうかもしれないじゃないか! 夜の港には誰もいないし!
トラックに積まれたコンテナに侵入してようやくあ、人のいるところまで行けるんですね。がんばれがんばれ寄生生物! という気分。

でいよいよ我らがミギー先生の誕生を目撃することになるのだが、ラリって幻覚を見ているようなテンションの新一を心配して見に来る両親の姿が…ない。
信子しか新一の部屋にやってこない。

意味のない設定改変と意味のある設定改変って原作アリの映画にはつきものの現象ではあるけれど、映画=意味の王国という言に同意するのなら、これは意味はあるけれど、その意味は原作の持ち味を損なうという意味の最悪な設定改変。

この映画、泉家を母子家庭にして何がしたいの?

新一の中での「母性」の持つ重要性が強調されるじゃないですか!

お母さんはそりゃ少なくとも俺のなかではスゲェダイジだよ? それはよく分かる。同意もする。
ただ、母子家庭であることにして、この映画が何がやりたかったのかと考えると、「親が2人いるより1人しかいない方が思い入れよりできるでしょ。設定的にも、観ているオマエラにとっても。どうです? 泣けるでしょう? 切ないでしょう?」みたいな考え方が透けて見える。世間的にどうなっているか、本当のところはどうだかは知らないが、俺は山崎貴という監督をそこまで浅はかなヤツだと思っている。

泉家が母子家庭になっているのは「A」、パラサイト信子、島田秀雄までの戦いをまともに描いていたら到底2部作では終わらないから話の進行速度のスピードアップのためにしたとも思える。
事実、「A」とパラサイト信子の話が完全にミックスされて新一超人化まで一気に話を進めている(事実、と書いたがランニングタイム的にどの程度なのかは分からん)。

この母子家庭設定は新一に母信子への思いを不必要なまでに強めるまでか、新一の心情を通り越してパラサイト信子の敗因へと繋がる。
あゝ素晴らしきな母性。
「今切り離してあげるからね」と新一は最後の一撃を加える直前に母親の右手を見てつい躊躇してしまう。新一にとって母親の右手(とその火傷痕)は、母親の母性(なんか頭悪い表現だな)、泉信子を自分の母親たらしめている象徴なのであるが、映画の新一くんも同じく最後の一手を止めてしまう。
原作では新一同様に人間の脳が残った宇田とジョーがパラサイト信子をパラサイト/信子にして「こいつはもちろん君のお母さんなんかじゃない。それでも、君がやっちゃいけないと思うんだ」と新一に残った人間性を救う役割を果たす。
それが映画では致命的な隙ができた新一への攻撃を止めるのは母信子の右手なのだ。

見ていてワケが分からなかった。なんでパラサイト信子は新一への攻撃を外したの? と。

パラサイト信子のボディが勝手に動いて、パラサイト部分の攻撃を妨害したという。
そんなことは起こるはずがない。
母性、泉信子を泉新一の母たらしめているなにか不思議な「論理を超越した力」が働いてパラサイト信子の攻撃から新一を守ったというのだ。

論理を超越した〜というのは劇中で田宮良子が言った言葉で、これもまた母親に自分の正体を見ぬかれたのをそう説明していたのだが、ここまで来れば山崎貴のアホが寄生獣における「母性」の描き方をマヌケな方向に歪めてねじ込んできたのが分かる。

設定改変といえば、今回の映画でパラサイト信子は「A」だった。
新一/ミギーとの戦闘でボディに致命的なダメージを負った「A」に泉信子が偶然遭遇して体を乗っ取られるという流れだったのだが、これにも不満がある。
原作で泉信子がパラサイトに体を乗っ取られるのは、「誰も予想し得なく、通常起こりえない偶然が重なって起こった不幸な事故」という形になる。
寄生生物に遭遇する機会は都市部よりも低いはずの郊外への旅行で、そこでまさか「他のボディへの移動に迫られた寄生生物」に遭遇するなんて多分俺がミギーでも考えない。
そんな偶然が起こることなんて考えもしないで、むしろ両親への気遣いの意味もあって一回反対した旅行を勧めたから、母親の死に対する責任を強く感じるのだと原作を読んだとき考えていた。
「ものすごい偶然が起こってしまった」のと単なるご都合主義ではそれを受け取る人の価値観が反映されて切り分けの範囲が決まると思うのだけれど、「A」、パラサイト信子(そして島田秀雄)までのストーリー運びから感じるのは単なるストーリーの圧縮だけだ。

ここまで書いて、最初に持っていた感想というか、書いて残しておこうと思ったことの6割くらいを忘れた気がする。やはり『寄生獣』は観ていろいろ思うところがありすぎる。原作への思い入れがあるだけに。

島田秀雄との戦いも不満だ(これは予告編を見た時からずっと不安だった)。
東出昌大はミスキャストだ!
あの人、笑顔がホント‘三木’にソックリだよ!!!
プロデューサーさん! 設定変更! 設定変更ですよ!(ヤケクソ)
予告編見た時から「この新一が何か高いところで弓を引くシーンはひょっとすると島田を遠距離攻撃する場面…」という不安はあった。そしてそれは予想通りだった。

この設定変更の何が不満って、原作の島田への攻撃はミギーのコントロール+新一のパワーで成り立っているところが、ミギーが弓矢の弓になったら意味ないところ!

パラサイト信子との対決が「A」との戦いとミックスされて、原作の時系列が交錯しているところがさらに島田秀雄との戦いを不安なものにもしている。
原作では(こればっか)、パラサイト信子との戦いを通じて精神に変革のあった後の新一がこれにあたるのだが、映画の島田くんと戦っている新一くんはまだそれが未完了でなんとも心もとない(観ていた俺が)。

親を殺して(普通は殺すのは父親だが)、人間的に大きく成長しろよ!
親を殺して精神的に成長するから、30%人間でなくなったから、切り株の海を前にして深呼吸するだけで冷静になれるのだろうよ!!!

うう…。

もう大分書いたし、すべてを書いてるとキリがないから後は箇条書きで「なんかなあ」ってところを残しておく。

  • なぜに新一の生活圏はあんなに「ちょっと昔の商店街」っぽいのか。
    メンチカツを買う肉屋とか「A」と戦った通りとか。おでんの屋台とかやけに小汚い中華料理屋とか、なんかの冗談かと思ったぞ。っていうか新一が住んでいる街がイメージできない。
  • それに対して田宮良子たちがの‘ネットワーク’(寄生生物たちの互助組織的な感じで劇中では説明されてる)が使っている施設つーか…屋敷つーか…何の建物なの? あの比較的新しめの大学講義棟みたいな建物
  • 新一の生活圏=昔ながらのスタイルが残った街=人間味。寄生生物の建物=無機質で人間味のない場所、みたいなイメージを作りたかったのかな…?
  • だとすると、それは岩明漫画の実写化としてどうなのよ
  • 岩明漫画の特徴は、特に現代日本を舞台にしているときには、服装とか建物とか、そういう時代によって移り変わりやすいアイテムがわざと味気のないベーシックな感じでしか描写されないところ。それが寄生獣が時代を超えて読まれる一要因かなと思ってた。身の回りや環境がベーシックに描かれている(時代をあまり反映していなく、いわば現代日本だと最低限わかる程度のディティールしか持っていない)からこそ、その中で展開されるドラマが映えるっつーか…。
  • 普通の食事で生存可能か実験をする田宮先生に対して島田が、「気持ちわりー」。いや、人一人平らげるほうがよっぽど消化器系に負担ありますよね。
  • 犬が登場しない。故に、中華料理屋の寄生生物をミギーが見て「ヒトを食べるのが寄生生物の性質」と分かる理由がない。
  • 犬の脳を乗っとった寄生生物は犬。人の脳を乗っとった寄生生物は人を食べる、というのが必要。山崎貴はマヌケ。

あと最後に