よく考えたらこのブログ、実写映画版寄生獣のことしか書いてない。 いや……よく考えなくてもそうか。
実写映画版寄生獣の「感想」書いたとき、ブコメなんかで私が気になったのは「原作至上主義者」「原作信者」っていう反応でした。 そういうように言われるのは、くだんのエントリのほとんど大部分を占めるのが原作からの変更点に対するネガティブな感想だったからだと思います。 実際わたし、後編にあたる『寄生獣 完結編』を観に行く前には「信者だから観に行くよ!」なんてことも言いました。
はい。わたしは原作まんがの信者です。
もちろん完結編を観ての感想も、基本的には原作からの大小様々な変更点に対するネガティブなものだったのですが、映画終盤のある重要なポイントにはあまり触れませんでした。少なくとも、感想として書いた量はそれ以外の点についての方が多いです。
そうしたら、こんなエントリが話題になったのですね。 「寄生獣 完結編」終盤の問題について
わたしこのことについは前面的に同意しますし、実際観たときには呆れという感想しか持ちませんでした。ふざけんな、バカっていう。 でもね……このエントリの最初のところが気になったんです。
私は原作「寄生獣」にリアルタイムで接してファンになり、待ちに待った映像化の実現を心から喜んだ者の1人です。決して大作をしたり顔で評する評論家崩れや、原作との細かい差違をあげつらう原作至上主義者のようなことをする気はありません。実際、本作も今回問題にしている一点さえなかったら、映画向けに改変された部分を含め、原作と同様に全力で支持していただろうと思います。ただ、この一点は作品全体への評価を揺るがすほどの問題を内包しており、これはきちんと意見表明すべきであろうと思ってこの文章を書いています。
わたし、原作信者なんですけど!!! まあこれは別に特定の誰かに向けて言ってるわけじゃない、ということは分かっているけれど、「原作至上主義者」という言葉を見てピクピクッとわたしのなかの何かが反応したわけです(信者特有の被害妄想)。 何かを受信した結果だとしても、映画が原作まんがから違っていることのみを問題としてネガティブな感想を書いたわけではない、ということはわたし自身への戒めとしてここで書いておかねばなるまい、とそう思ったのです。
原作信者がそれの映画化作品に対して思うことの一つとしては「原作のスピリットが出ているか」「原作のメッセージに対してどのようなアンサーが出されているか」という点だと思います。……スピリットやメッセージ、なんて言葉は使うのにちょっと気恥ずかしい感じがしますが(特に‘原作の’なんてつけた日には)。 わたしの実写版に対するネガティブな感想も、様々な変更点によってどのように原作のストーリーやメッセージが解釈されるのか? というところに還元されます(少なくともそのような感想でありたい)。 信者としてはもちろん原作のビジュアルや演出、台詞が実写で再現されることに喜びはあるわけですが、それ以上に監督の解釈によって原作をもう一度新しく味わえるというところが醍醐味なのだと思うわけです。
終末映画だったロメロの『ゾンビ』がザック・スナイダーの『ドーン・オブ・ザ・デッド』でサバイバルアクションホラーな娯楽作になったように。 超常ホラー小説だったキングの『シャイニング』がキューブリックによって狂気人間サスペンスになったように。
原作に思いれがあるからこそ、映画になったときにどう変化するかが面白いということなんです(わたしシャイニングは映画の方をさきに見て好きになったクチですが)。 原作信者が別のメディアになったものをみてネガティブに思ったり怒ったりするのは、その別メディアになった際の変更が原作のスピリットやメッセージをどう捉えた結果そうなったのか、という点につきると思います。その点への感度の差が原作信者(原作ファンって言ったほうがいいかな)と「おまえなんて単なる信者じゃないか」っていう人との距離感になる。
大きな変更点も細かい変更点も大事なんです。大事に思うからこそ、変更によって新たなモノに出会えたとき、長年自分のなかであたためて反芻してきた原作のイメージを超えたものを提示されたとき、いい映画になって良かったな思えるんです。
そういう映画独自のメッセージやスピリットをまったく無視して「原作とここが違う!」ってところだけ単に羅列して映画を批判するのってーーー有り体に言って「意識低い」っていう表現がしっくりきます。ただ、そういう意識低い叩きが映画への批判を占めているのかと言うとそうではなくて、きちんと読むところを読めば映画のメッセージに対する批判としてそういう変更点にネガティブなことを言ってる、というのは無視してはいけないと思うのです。その批判が映画を観ていない人の伝聞であったとしても。 「本当であればこれは大変な問題ですよ」っていう若干それ自体が問題のあるようなフレーズに置換されるのだとしても、実際に観て変更点に対してネガティブなことを言ってるわたしのような立場としてはまったくそのとおり、問題なんだよって言うしかなのです。みんな映画観てね。 うーん、タイトルでは勢いのある感じになっちゃったけど、なんか中途半端な感じになっちゃったなあ……そうそう、今回の寄生獣クライマックスの展開問題をみて思い出したのは『ウォッチメン』でも同じような問題があったなということです。 ウォッチメンってなんじゃらほいっていまさら書く必要もないような気もしますが一応書いておこう。 『ウォッチメン』はもともとアメコミでは革命的作品ということで長らく映画化が待望されていたのですが(コミックの出版は1986年)、紆余曲折を経て2008年に映画化されました。このあたり寄生獣によく似ていますね。
御多分にもれずこのウォッチメンも原作のコミックスから様々な変更点を伴い映画化されたわけなんですが、それでも公開時には「あの原作をよくここまで忠実に再現した!」なんてことがちらほら言われていました。監督のザック・スナイダーからしてこれまたコミックが原作の『300 <スリーハンドレッド>』でここまで忠実に再現するのかって評価された人なんですね。 で、この映画原作ファンから「原作と違う」故に批判された点でわたしがなるほど! って思ってポイントは
- ロールシャッハやDr.マンハッタンはかなり原作準拠な造形なのにナイトオウル二世や特に、オジマンディアスがスゴイ違う
- Dr.マンハッタンの質疑応答のシーンと、ナイトオウルとシルクスペクターがチンピラをボコボコにするシーンが重ねられて描写されなかった
- イカ
なんですね。
2番目に関しては、これはたとえばラブシーンの盛り上がりに合わせて火炎放射器が火を噴くとか、ここまで再現するんだったらそれもなんか工夫でできんだろ! っていうポイントで、無かったことは非常に残念だけれども「尺とかの関係」で出来なかっただろうなあ仕方なかっただろうなあっていう自分なりの納得はできます(ないめんかって言うんだっけ?)
オジマンディアスの造形違いすぎ問題に関しては、これは実はウォッチメンという話のわりと根幹に関わる部分なのですが人の容姿についてとやかく言うのってホント最低(倫理観)だと思うので、あまり言えません(ホントは論理のすり替え。そういう役者を選んだ責任が監督にはある)。
で最後のイカ。これクライマックスの展開に関することなので、実写版寄生獣にとっての後藤問題といても過言ではないのです。
イカはしかし映画では別の「同じ機能をはたすもの」に置換されていました。……ビジュアル的に設定的より現実的と思われるようなかたちで。 けれど原作ではイカはイカであるべき必然性があってイカになっていたので、その置換がはたしてウォッチメンという話で同じ機能を果たしているか、原作を読んでいる人だったら明らかにその瑕疵に気づいてしまうものだったのですね。
イカと新一の掴んだ棒の先についていたモノ。
こういう小さな変更点こそまんが(コミックス)の映画化作品で大事なところだと思うんですけどね。