超時空超巨大小学6年生

ときどき何か書きます。

誰だって頭の中ではヒトゴロシ

先日、このようなエントリにブコメした。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない - はてな村定点観測所

はてなブックマーク - cloq : 「ある個人的理由でなら人を殺してもよい」というのを認めるわけにはいかないから「何のためであっても殺してはいけない」と決まっているのだろうなぁ…。個人には大きすぎるから、せめて国家(法律)が負っている。


これはなぜ殺人がルール(法律)において禁止されているかについての僕の考えだ。
だからヒトサマが自らの考えや信念に基いてコロシをするにあたっては、途端にこの考えは無効化される。

死ななくてはならない。殺すべきだ。殺してやろう。なぜならーーー。

と、このようにコロシにあたって人の行動は「個人的理由」に支配される。
そのような世界ではコロシが「いけない」という考え方はない。
法律や道徳観念や罪悪感は、素朴な印象としてヒトゴロシをする上で足枷になる、と誰もが考える。
けれど、それは他者や過去の自分と対峙するときにはじめて意味を持つのだ。
自分がセカイの中心であればーーーセカイに自分しかいなければ、自分の納得するルール以外に意味のある規範はない。
道徳観念は、それこそコロシを肯定してしまうかもしれない。なぜなら、あいつは死ななくてはならない。
罪悪感は、そもそも罪を犯した意識もなければ、邪悪なコトだという認識もない。あれはなぜそんなヨコシマなことをしてしまったのか、ルールを破ってしまったのか自分でも説明のつかないときの、一種の後悔のようなものだ。だから、何か取り返しの付かないことをしてしまった人の罪悪感は一生消えることがないし、コトがすっかり元通りになった程度のことなら、反省という形で振り返り、罪悪感はより小さいはずだ。
そこには他者の存在はなく、確固たる自分しか存在しない。
他者はセカイの構成要素にしかすぎなく、中心にはセカイをどこまでも支配する自分しかいない。
なぜ人を殺してはいけないのかーーーと問われれば僕の答えはこうである。

「いけないことはない。君の自由だ。君が真にセカイの中心であるなら。
 ただーーー」

世界にはセカイがいったいどれほどあると思っているのか。
人の数だけセカイがあって、そのどこでも死んでもよい、消えてほしい、殺してやろうか、とセカイの構成要素から外してもかまわない存在はある。ただ、あるセカイで切り捨てられても、別のセカイでは切り捨て不可能な重みを持っていたり、中心そのものであるはずだ。
当然だ。セカイとセカイの間(世間)では切り捨て可能な人間が違う。ある世間では切り捨ててもよい人間が重なることもあるけれどーーー。
世間はある程度多く集まってできたのが社会だ。
「コロシをしてもいい」条件なんて、どんな理由であれ認めてしまったら世間がそれを認めないのだ。理由のあり方によっては、社会がそれを許さない。

社会が認めるコロシならいいのか。
それがすなわち死刑であり戦争(における殺人)であり、ときには虐殺であるのだろう。
社会にまで拡張された「殺してもよい理由」に自分(=セカイ)というものは含まれているのだろうか。
それは、“こうルールで決まっているから殺してもよい/いけない”、という考えに還ってくるのではないか。ならば、コロシに許される/許されないを考えるのにあたって個人的理由は一切関係なくなる。いや、ルールと個人の動機が接点を持たないのなら、セカイで肯定された考えとしてコロシをすればいいだけの話だ。

その結果を引き受けられないならーーーやはりヒトゴロシはすべきでない。
誰もがその結果を引き受けられないから、ルールでシテモヨイ殺しが決まっているのだ。