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超時空超巨大小学6年生

ときどき何か書きます。

『寄生獣 完結編』観てきた。その映画には恐怖と、怒りと、愛がーーーあったのか?

 タイトルは思いついただけで別にそんな疑問はまったく浮かばなかった。
 『寄生獣 完結編』観てきた。


「寄生獣 完結編」予告 - YouTube

原作ファンとしては、前編は「残念」

  11月の前編『寄生獣』を見たときには「オマエ(山崎貴)に監督をされて、残念」なんてエントリを書きました。

 エントリのタイトルから分かるようにわたしは今回のこの映画化には大変不満です。なぜそのように感じたのか。それは、わたしが「寄生獣」というまんがの大ファンであることだけが理由ではありません。確かに、まんがやゲーム、小説の実写映画化にはつきものの、原作からの様々な変更は時に原作ファンを失望させます。女性/男性に変更されたキャラクター、削除されたストーリー、そして走るゾンビとイカ……多くの「実写映画化」作品がこのような点で原作ファンから批判されます(おっと、走るゾンビは実写映画化作品じゃなかった)。

 原作からの様々な変更点はしかし、映画化するにあたっては理由があって行われているし、必要なことではあります。それは分かっています。「原作」は映画のために存在しているわけではないですし、関わっている人も違う。作品を通してのメッセージも当然違う。映画は映画として原作とはまた違う楽しみ方をさせてくれればいいし、映画がどうであれわたしにとっての原作が変わるわけでもない。わたしにとって面白くない映画がある、ということが1つ確認できただけ、とそんな風に捉えておけばいいのです。少なくともわたしがわたし自身にだけ求めることのできるモラールとしては。

 でもね、やっぱりそれだけじゃ寂しいんです。

 映画は娯楽の王様だ、なんて言葉があるかは知りませんが「映画化」と聞いて心躍らされる原作ファンは実際少なくないと思います。まんがやアニメ、小説、ゲームが映画より低位のエンタティメントであるとは微塵も思いませんが、それでも字や絵(と音)でしか表されていなかった物語が実在しているかのように見せてくれる映画(実写映像化)には特別な気持ちがもたざるを得ません。何より、わたしに関して言えば、『寄生獣』は原作まんがのファンであると同時に映画全般も好きということがあります。好きなまんがや小説が実写映画になった様を想像してあれこれ楽しむのはわりと誰もがやったことある遊びだと思います。

 『寄生獣』の実写映画化、なんて心ときめくフレーズでしょう。

 それで、前編を観て思わず書いてしまったのが上述のエントリです。大小不満なところがあったなかでわたしが特に1つの映画として不満を持った点は次の2点です。

  • 「母性」を物語のなかで重要視するあまり、キャラクターの行動や偶然起こることとが不自然に見えてしまった点
  • 映画の最後でパラサイトと戦う(一匹でも多く倒す)決意を固めた新一、でもどうやって?
  • わたしは原作を読んでいるから(あ、いまのところあの説明省いたな)ってわかるけれど、それ省いたらダメだろってところがいっぱいあったところ

 『完結編』を観るにあたっては、こういうところに注意を向け鑑賞しました。

 

パラサイト殺すべし。慈悲はない。

 あの、初歩的な疑問なんですが、ミギーの協力なしにパラサイトを倒すことは可能なんでしょうか? はい、倒すことだけなら30%分のミギーの細胞を得た新一には可能です。前編でも新一はパラサイト信子を独力で倒していましたし、原作のまんがでも「後藤」から逃げている最中に「‘ふつう’のバケモノだったら〜」と自信の見える台詞を言っています。でも、探しだすのはどうでしょう。パラサイトの脳波感知能力を持たない新一にこれは無理な話です。だからわたし前編を観たときに思いました。パラサイトを一匹でも多く見つけて倒すって言ってるけど、ミギーが協力してくれないと無理じゃないの? そしてミギーがあえて積極的に他のパラサイトを倒しに行く(それに協力する)理由はない、と。

 新一が1人でもパラサイトに戦いを挑む決意を見せる前編終盤のシーンは、アメコミヒーロー映画の第一作みたいでカッチョ良く見え…ませんでした。そこのところ完結編ではどう処理するのかなと思いつつ観てみたのですが、そういう話は映画が始まって5分くらいでもう終わってしまいました。見つけた! ミギーが教えてくれた! でもナンデ? 殺すべし! キル! ヤッター!

 この点、細かいようですがわたしは結構映画の面白さに重要かなと思っていて、この新一の目的とそれに応じた行動が完結編における新一の物語の核…とまでいかないまでも出発点になるはずだと思っていたわけです。物語とは、登場人物が目的を如何に達成するか(あるいはできないか)を描くものです。新一にはパラサイトを一匹でも多く倒すという目的があり、それは同じパラサイトであるミギーなくしては達成できません。けれどミギーにはそれをする積極的な理由がなく、前編の映画でも「自分たちは単に食事をしているだけ。君たち人間もするだろう」という旨の台詞を言っています。さらに、原作では新一に「パラサイトである自分は同種を殺しても思うところはないが、君だったらどう考える?」という言葉を向けています。もっと単純にはミギーにとって大事なのは自分の生命であってそれに優先することはない、という基本姿勢もあります。

 この新一=復讐、ミギー=自己保存という乖離がどうのように変化していくかというのは、「新一の物語」の推進力になるはずなんですが…その話はあまりやらなかったのは観ていて残念に思った点です。パラサイトスレイヤーと化した泉新一も観てみたかったです。どうやってパラサイトを見つけるかというのもアイディア次第では面白くなるのではと思いました。しかしパラサイトの隠れ家に行った時にミギーはなんで扉の鍵を開けたのでしょうね。

 

村野里美(橋本愛)とのファックシーンが気持ち悪かった

 気持ち悪く思った原因、それは「母性」です。

 「後藤」との戦闘の後、命からがら逃げてきた新一が恋人の村野里美(橋本愛)と結ばれるところなんですが、新一が里見を求める理由が気持ち悪く感じました。理由と言ってもハッキリこうだ、というように作中名言されているわけではないのですが(そんなことハッキリ言ったら逆に気持ち悪い)、多分新一は様々なものを失った末の、最後に自分に残された大事な人として里美をより強く求めたのだと感じました。

 様々なもの、というのはパラサイトに関わったことで失われた生命のことだと考えます。特に、母親と田宮良子、そしてミギー。母親は言うまでもなく新一にとって最も重要な存在の一つです。田宮良子は実験で生まれた子どもを新一に託して死んでいきました。新一に関わった人(ではないですが)でまた母親が死んだわけです。それも自分の子どもを我が身を省みず守って。その行為があったからこそ、新一は自分の母親が死んでから流せなくなった涙をまた流せるようになったのでしょう。

 新一にとってミギーはどういった存在だったでしょうか。ミギーは、何よりも一度死んだ新一を復活させ、文字通り血も肉も分けあった仲です。母親が死んだときから新一を保護し、その身を案じ(宿主的な意味で)、食事を作ったのはミギーでした(新一も一緒に台所に立っていたけど)。それは有り体に言って「母親」と言ってもいいのではないでしょうか。

 つまり、新一の世界では母性をもつ者が失われたということだとわたしは考えます。ただ一人村野里美を残して。最後に残された「母親」として村野里美を求めたのだと。多くの人(じゃないのもいますが)が失くなり、打ちのめされた新一は訪れた村野里美にすがるように泣きじゃくります。里美はただ新一を抱きしめ、ミギーとの融合以降変質してしまった新一がもとに戻って帰って来たように新一を大好きな人と言ってあげます。その光景はまるで幼い子どもが泣いているのをあやす母親のようでもあります。わたしは映画館のなかで「も〜っと私に頼っていいのよ!」「里美は私の母親になってくれたかもしれない女性だ」という心のなかのニコ動コメントが止まりませんでした。

 原作だと新一が里美を求めるところは結構露骨で、「後藤」の圧倒的な戦闘力を見たあとに生命の危機を覚えたから、という流れになっています。人は生命の危機を覚えると自己保存本能が働いて性欲が強くなるという説明はそれらしく聞こえますが、その説明で(原作の)ここは十分だと思います。映画の方でも生命の危機を覚えた、という見方もできなくはないと思いますが、「後藤」との戦闘の後、ミギーも失った新一にその緊張状態が続くとは思えません。原作のほうだとこれからいつ「後藤」が仕掛けてくるか分からないといった状態でしたし。

 映画で新一の求めたモノ、‘セックスしてくれるおかあさん’がそこに浮かび上がって見えました。マザファッカ!

 

全員同一能力バトル漫画としての『寄生獣』が好き

 まんが「寄生獣」の大きな魅力の一つとして戦闘シーンが非常にクレバーな点です。パラサイトは「お互いを脳波のようなもので感知し、距離と方角がわかる」「パラサイト同士の戦闘能力は基本的には同じで、後は知恵の差」という特性を持っています。このシンプルなルールを最大限に活用しているために「寄生獣」の戦闘シーンは魅力的なのです。要するに知恵比べ合戦なわけですが。

 この全員同じ能力で戦うってまんがわたしはあまり知らなくて、同じ岩明均作品の「七夕の国」でちょっとだけその片鱗を見たり、水上悟志の「惑星のさみだれ」で変則的に採用されているくらいしかないです。ジョジョに代表されるような一人一能力バトルまんがは少し食傷気味で、でも能力バトルといったらだいたいそういうふうになっている風潮のなかで『寄生獣』のこの全員同一能力バトルは本当に好きです。

 翻って映画での戦闘シーンはどうだったでしょうか。今回の映画でパラサイトの戦闘は新一によるパラサイト撃破、「三木」の暴力団事務所虐殺、新一vs「三木」、田宮良子vs広川の命を受けた3人のパラサイト、市役所掃討戦、そして新一vs「後藤」。最初ものは新一の身体能力の凄まじさに注意があたるような戦闘なので、これに関しては特ないです。ただ、これに関しては原作にもあった「ミギー…ぼ、防御頼む」という台詞が、新一の怒りを端的に現す機能が弱まっているため少し残念に感じました。なぜなら、加奈ちゃんが映画には登場しないためです。「三木」の暴力団事務所虐殺に関しても同じように「三木」のキャラ紹介のためにあるようなものです(笑顔だけど不気味なおっさんとしてのピエール瀧が好みに合うか合わないかが問題だとだけ感じました)。

 新一と「三木」の戦闘には、原作のなかでわたしが最高にカッチョ良いと思ってるネームがあります。

ただでさえ触手をもてあましてる奴にこの近づく「点」が補足できるか!

 何をカッチョ良いと感じるかは個人の感性によるものなのですが、これは基本スペックではどうしても勝てない「三木」に新一とミギーがどうやって勝つのか? というロジックの説明なのです。林の中をただ逃げているように見えた新一たちは実は、「三木」に対して横方向に移動していて、突然方向転換して「三木」のいる方へ近づいたために触手の制御の甘い三木がそれに対応できなく致命的な攻撃を与える隙を生んでしまった、という説明です。

 んで、ピエール三木と染谷新一の戦闘なのですが、ミギーが「仕掛けるぞ!」といった瞬間にそれまで背を向けて逃げていた新一が振り返ってピエール三木を飛び越える(スローモーションで)。三木の後ろに降り立った新一たちはピエール三木の首をはねて撃破! あの…三木が倒されるロジックがそこにないんですが…。この説明の差はまんがと映画というメディアの違い以前の問題だとわたしは思います。あの戦いは三木が実は「〇〇」ということが明かされるということ以外必要じゃないよ! という人もいると思いますが、一体全体、原作の特に好きな部分をその原作のタイトルを冠した映画で期待して何が悪いの!? 少なくとも、三木がこれまでのパラサイトより一段上の戦闘能力を持った存在であると示されているのですから、それを倒すためのKUFUは見たかったと思います。登場したね強そうだね覚悟を決めたら倒せたよ以上の描写は観たいものです。

 田宮良子と3人のパラサイトの戦闘でも最高にカッチョ良い台詞

………3人いれば勝てると思ったのか?

  映画にどういう感想を持ってるにせよ、わたしはこの台詞を映画館で聞けてうれションするくらい興奮しました。台詞は原作では田村玲子のもので田宮良子を名乗っていませんが…。この戦闘は半分くらい原作の知恵比べを採用していてまあちょっとだけアガりました。半分くらい原作の知恵比べがあると書きましたが、映画になかったもう半分のKUFUというのは、3人がお互いを攻撃し合うようにした部分です。このあたり非常にクレバーな作戦で、映画の中でもミギーが言ってい「田宮良子/田村玲子はパラサイトのなかで最も知能が高い」ということがはっきりと分かる素晴らしいシーンなので是非映画のなかでも見たかったです。ちなみにここ原作では寄生獣最大の知恵比べであると同時に岩明先生特有のギャグも炸裂していて、「でも頭はカラッポだよ〜ん」という田村先生の捨て身の一発芸やキャハハハハと口だけ女状態で街を疾走する姿が拝めます。尊い…(とでも言っておけばいいのかな今風に)。

  全員同一能力バトル展開が好き、ってより戦闘でどうしてこいつがこいつに勝てたの? っていうロジックが好きな自分としては「完結編」における戦闘ロジックのなさは残念でした。

 

この種を食い殺せ(大嘘)

  ごとうさんのあたまがおかしくなつてしまつたのは大変ざんねんです(原作信者並の感想)。

 いやあのですね、最後に「この種を食い殺せ」についてラスボスの後藤さんからせつめーがあったのですが、そんなもん戦闘マッスィーンの後藤にやらせんなよ! なんかー我々パラサイトが人間を食べる理由っていうかーこの種を食い殺せって囁いてるゴーストはおまえたち人間なのだ! とか言ってたけどー時代遅れ気味のエコ思想っていうかーすぴりちゅある? ヒッピーコミューン? 的な?(雑な認識)。広川の考え方の延長線上にあるような‘思想’に後藤まで浸かってるのはまあちょっと予想とはるかに違うっていうか…

 後藤がこういう「人間っぽい」ことを考えるのって後藤の形態が原作のような最終フォームにならなくて、あくまで人間の形を維持したままだったことと重ねると映画版に通底する考え方が見えると思いました。

 「この種を食い殺せ」って、原作では後藤にとっては怒りそのもので、それが形になって現れたのが最終巻でのあの獣そのものの姿なわけです。映画の「後藤」は台詞にもあるように「この種を食い殺せ」と命令しているのは人間に他ならないと考えているからこそ、パラサイトとしてある意味究極体であってもあくまで‘ふつうの’パラサイトの延長線、人間の姿を保ったまま「後藤」として存在しているのだと思います。

 自らの存在意義を問うのは、自分がどう生きるのかっていう実存の問題です。

 だから、ミギーが最後に言う台詞はそのテーマに対する一つの答えになっていて、心にヒマがある=他者のことを思えるから素晴らしいっていうメッセージになってると思うわけです。新一はパラサイトと関わることで自分の人間性が変質していく(自分が自分でなくなる)ことに悩まされます。それが原作の「胸の穴」であり「まるで鉄のようだな」「きみ、泉新一くんだよね?」と投げかけられて戸惑う理由です。自分はまだ人間なのか、パラサイトでもない別の存在になってしまっているのか…。原作の「後藤」との戦いの終わりに、新一はその答えに至ります。結局自分はちっぽけな人間でしかない、と。

 新一は最初とどめを刺さないと決めます。それは、瀕死状態の「後藤」のことを殺したくないと思うのが人間だという考えからですが、その後振り返ってとどめを刺しています。「せいぜい小さな家族を守るのが精一杯」とセカイのなかでの自分の小ささに思い至って。このセカイとの距離感の取り方が私には好ましいものとして見えます。

 「七夕の国」にも見てとれるこのセカイとの距離感は、人類のため、地球のため、種全体のためという大きな問題意識に対するアンチテーゼに私には感じられられます。だから、わたしは「パラサイトが存在しているのは結局人間自身のため」っていう考え方、ちょっと好きになれそうにないです。「後藤」にはそんな大きな問題意識を語ってもらいたくなかった。また、新一がまんが同様に「後藤」へとどめを刺すことに逡巡したのもちょっと原作を表面的になぞっているように見えてしまいました。

 

後はだるくなったので前回にならって箇条書きに。

  • 市役所掃討戦で「後藤」が盾を真正面にして銃弾を受け止めているのはショックだ。細胞を硬質化させているとはいえ銃弾を真正面から受け止めるのはかなり危険ってはっきりわかんだね。大事なことは全部まんがで習った。
  • 浦上がなんかデスノートのLみたいな格好で出てくるのはちょっと笑ってしまう
  • 「後藤」の鎧の隙間の話をしてない状態で新一に鉄棒を刺させるのは大変な賭けじゃないの!?
  •   あ、ファックシーンではどの瞬間が破瓜の瞬間として演技させているのかな^〜って橋本愛ちゃんのお顔を凝視していました。あと染谷将太くんのケツを映すんなら一瞬だけじゃなくてもっとおかわり!
  •  それからコトが終わって半裸で抱き合っているところ、染谷くんのボディがじゃっかんわがまま気味なのはもうちょっとなんとかならんかったのか…でもその橋本愛にゃんの顔の位置、鼻息とかが乳首にあたりそうでイイ。
  • 広川シチョーの最後の演説、実際あれは邦画で観る演説シーンとしては『CASSHERN』のブライキングボスの演説並に良かった。みんなも唐沢寿明演じるブライキングボスが超カッチョ良く人類への宣戦布告(ただし聞いているのは2人だけ)するシーンを見て惨たらしく虐殺されたパラサイトが復讐を誓う妄想をしよう

我々は生きている!(ドーン)
我々は紛れも無くここに生きている
しかし人間はそれを認めようとしなかった 
それどころか目にもあまる残虐な手を尽くしてわれら同胞の命を排除した
あたかも裁きを下すものが如く!
あたかも彼らがその権利を有するかの如くだ!
命に優劣があろうか?
生きるという切実な想いに優劣があろうか?
ただひとつの生を謳歌する言葉の重みに優劣などあろうか?
無い! あるはずが無いのだ!
しかし人類は目に見えぬ天秤に我々をのせた
それが仮に彼らの権利だというのなら逆もまた然り
我々がその権利を有することも可能なのだ
我々はここに王国を築く
我らの命が命ずるまま
我らの意思の赴くまま
そして、我らの願いが導くがまま
ここに我らは死を治むる新たな新造人間と称し、人間を、皆殺しにする

  • やった! すなわちこの種を食い殺せだ!
  •  実際「後藤」が最後まで人間形態のままだったのは残念だよね。
  • つか「放射性ガレキ処理所」って…
  • 最後の浦上との一件で、橋本愛にゃんがビルから落とされるスローモーションで妙にコントラストが上がったのは合成のためかにゃん?