読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

超時空超巨大小学6年生

ときどき何か書きます。

書きたいが書けない、でも書いて残したい。

 前回書いた実写映画版『寄生獣』を観てきた感想エントリがたくさんブクマされたり、ツイッターで流れたりしてちょっと戸惑っています。

 別に読まれなくてもいいやと思って書き殴っているこのブログですが、読まれれたり何か反応があるとやっぱり嬉しいもので、何かまた書こうかなという気分になるものです。

 書き殴りでもいいから、とにかく自分の考えたことを残しておこうというスタンスでしたが、反応があると助平心がでてしまってもうちょっと上手く読みやすいように書こうかなとも思ってしまいます。

 しかしこれがなかなか難しい。

 書きたいことはまだ何個かあって、下書きをしてみるのですが、どうにもうまく文にならない。整理できない。何を変えて何を変えなくて、書き進めていったらいいかよく分からなくなります。

 書きたいことがハッキリしていないから、混乱するんじゃないか。

 そんな風に自分が愚かしく思えます。

 せっかくブコメをしてもらったり、ツイッターで反応があったりたので、それも踏まえてもう少しマシにできないものか。変に向上心みたいなものが出たせいかなかななか納得できる形が見えてきません。

 どうせ前のエントリもたまたまあの日、公開日にいち早く感想を書いただけだったから目を引いたのだと、自分が他の何かを書いてもやっぱり前までと同じで特に人の興味を引くようなことはない。そういうように思えます。

 ーーーというか、実際のところそうだろう。

 だから、キーボードの前で四苦八苦して結局形にならなかった今日などはもう諦めてこのブログのことは忘れよう。ブックマークとツイッターで適当こいてれば楽しいのになんでそれで満足しないのか、と。

 多分その通りなんだろうなと自分で思って自分で答えられてしまう。

 でも、ちゃんと書いて残しておきたい。

 自分の考えたことを人が見れる形にしておきたい。

 伝えたい、という気持ちなのかもしれない。

 誰にも伝わらなくても。誰も読まないかもしれないけど。

 読まれても何の共感も反発もないかもしれないけど。

 

『寄生獣』見てきた。オマエに監督をされて残念、という気分

寄生獣』観てきた。


『寄生獣』予告編2 - YouTube

開始早々、「地球上の誰かがふと思ったーーー」というあの最初のモノローグを、田宮良子(深津絵里)が言うところから俺は不安だったんですよ。予告観たときから分かっていたけど。

寄生獣」って漫画は、最初のあのモノローグで寄生生物が出現したところを描いていることろでよく誤解が生まれる。
連載漫画だし、岩明先生が描いているうちに最初にあったテーマは多分、変質していったのだと思っていた。
地球とか、生物全体とか、環境とか、所謂‘エコ’みたいな言葉で表されるような、人間と自然の対立から、「我々は何故生きているのか」という実存を問うテーマに変わっていったのだと。
それは「考える寄生生物」田宮良子=田村玲子が自問のすえに「この種を食い殺せ」から人間の行動を理解するまでに至ったことに重ね合わさる。

だから、いくら原作通りといえ「地球上の誰かがふと思った」のモノローグを田宮良子に語らせあまつさえ同じモノローグを劇中そのまま言わせるのには非常に、非常に理解に苦しむところだった。

というか、そのモノローグを広川と後藤との会話で出すのはなんか不自然だろう。
田宮良子が自然環境問題啓発ビデオみたいなのを見ながら唐突に言い出すなんて、テーマ自体を言わせたいがために無理に言わせたみたいですごくブサイク。
聖書とかからの引用でもあるまいし。

ともかく観ているこっちとしては不安に思うことばかりで映画は進んでいく。
あ、不安っていうのは「やっぱり予想通り予想を超えてこの映画ダメなんじゃあ…」という予想が確実に現実のものになっていくことに対する気持ち。ね。

寄生生物がまるで深海から来たかのような描写。これも不安だ。
だいたい、海からやってきたら脳を奪う前の寄生生物が何の生物にも行き合わず干からびて死んでしまうかもしれないじゃないか! 夜の港には誰もいないし!
トラックに積まれたコンテナに侵入してようやくあ、人のいるところまで行けるんですね。がんばれがんばれ寄生生物! という気分。

でいよいよ我らがミギー先生の誕生を目撃することになるのだが、ラリって幻覚を見ているようなテンションの新一を心配して見に来る両親の姿が…ない。
信子しか新一の部屋にやってこない。

意味のない設定改変と意味のある設定改変って原作アリの映画にはつきものの現象ではあるけれど、映画=意味の王国という言に同意するのなら、これは意味はあるけれど、その意味は原作の持ち味を損なうという意味の最悪な設定改変。

この映画、泉家を母子家庭にして何がしたいの?

新一の中での「母性」の持つ重要性が強調されるじゃないですか!

お母さんはそりゃ少なくとも俺のなかではスゲェダイジだよ? それはよく分かる。同意もする。
ただ、母子家庭であることにして、この映画が何がやりたかったのかと考えると、「親が2人いるより1人しかいない方が思い入れよりできるでしょ。設定的にも、観ているオマエラにとっても。どうです? 泣けるでしょう? 切ないでしょう?」みたいな考え方が透けて見える。世間的にどうなっているか、本当のところはどうだかは知らないが、俺は山崎貴という監督をそこまで浅はかなヤツだと思っている。

泉家が母子家庭になっているのは「A」、パラサイト信子、島田秀雄までの戦いをまともに描いていたら到底2部作では終わらないから話の進行速度のスピードアップのためにしたとも思える。
事実、「A」とパラサイト信子の話が完全にミックスされて新一超人化まで一気に話を進めている(事実、と書いたがランニングタイム的にどの程度なのかは分からん)。

この母子家庭設定は新一に母信子への思いを不必要なまでに強めるまでか、新一の心情を通り越してパラサイト信子の敗因へと繋がる。
あゝ素晴らしきな母性。
「今切り離してあげるからね」と新一は最後の一撃を加える直前に母親の右手を見てつい躊躇してしまう。新一にとって母親の右手(とその火傷痕)は、母親の母性(なんか頭悪い表現だな)、泉信子を自分の母親たらしめている象徴なのであるが、映画の新一くんも同じく最後の一手を止めてしまう。
原作では新一同様に人間の脳が残った宇田とジョーがパラサイト信子をパラサイト/信子にして「こいつはもちろん君のお母さんなんかじゃない。それでも、君がやっちゃいけないと思うんだ」と新一に残った人間性を救う役割を果たす。
それが映画では致命的な隙ができた新一への攻撃を止めるのは母信子の右手なのだ。

見ていてワケが分からなかった。なんでパラサイト信子は新一への攻撃を外したの? と。

パラサイト信子のボディが勝手に動いて、パラサイト部分の攻撃を妨害したという。
そんなことは起こるはずがない。
母性、泉信子を泉新一の母たらしめているなにか不思議な「論理を超越した力」が働いてパラサイト信子の攻撃から新一を守ったというのだ。

論理を超越した〜というのは劇中で田宮良子が言った言葉で、これもまた母親に自分の正体を見ぬかれたのをそう説明していたのだが、ここまで来れば山崎貴のアホが寄生獣における「母性」の描き方をマヌケな方向に歪めてねじ込んできたのが分かる。

設定改変といえば、今回の映画でパラサイト信子は「A」だった。
新一/ミギーとの戦闘でボディに致命的なダメージを負った「A」に泉信子が偶然遭遇して体を乗っ取られるという流れだったのだが、これにも不満がある。
原作で泉信子がパラサイトに体を乗っ取られるのは、「誰も予想し得なく、通常起こりえない偶然が重なって起こった不幸な事故」という形になる。
寄生生物に遭遇する機会は都市部よりも低いはずの郊外への旅行で、そこでまさか「他のボディへの移動に迫られた寄生生物」に遭遇するなんて多分俺がミギーでも考えない。
そんな偶然が起こることなんて考えもしないで、むしろ両親への気遣いの意味もあって一回反対した旅行を勧めたから、母親の死に対する責任を強く感じるのだと原作を読んだとき考えていた。
「ものすごい偶然が起こってしまった」のと単なるご都合主義ではそれを受け取る人の価値観が反映されて切り分けの範囲が決まると思うのだけれど、「A」、パラサイト信子(そして島田秀雄)までのストーリー運びから感じるのは単なるストーリーの圧縮だけだ。

ここまで書いて、最初に持っていた感想というか、書いて残しておこうと思ったことの6割くらいを忘れた気がする。やはり『寄生獣』は観ていろいろ思うところがありすぎる。原作への思い入れがあるだけに。

島田秀雄との戦いも不満だ(これは予告編を見た時からずっと不安だった)。
東出昌大はミスキャストだ!
あの人、笑顔がホント‘三木’にソックリだよ!!!
プロデューサーさん! 設定変更! 設定変更ですよ!(ヤケクソ)
予告編見た時から「この新一が何か高いところで弓を引くシーンはひょっとすると島田を遠距離攻撃する場面…」という不安はあった。そしてそれは予想通りだった。

この設定変更の何が不満って、原作の島田への攻撃はミギーのコントロール+新一のパワーで成り立っているところが、ミギーが弓矢の弓になったら意味ないところ!

パラサイト信子との対決が「A」との戦いとミックスされて、原作の時系列が交錯しているところがさらに島田秀雄との戦いを不安なものにもしている。
原作では(こればっか)、パラサイト信子との戦いを通じて精神に変革のあった後の新一がこれにあたるのだが、映画の島田くんと戦っている新一くんはまだそれが未完了でなんとも心もとない(観ていた俺が)。

親を殺して(普通は殺すのは父親だが)、人間的に大きく成長しろよ!
親を殺して精神的に成長するから、30%人間でなくなったから、切り株の海を前にして深呼吸するだけで冷静になれるのだろうよ!!!

うう…。

もう大分書いたし、すべてを書いてるとキリがないから後は箇条書きで「なんかなあ」ってところを残しておく。

  • なぜに新一の生活圏はあんなに「ちょっと昔の商店街」っぽいのか。
    メンチカツを買う肉屋とか「A」と戦った通りとか。おでんの屋台とかやけに小汚い中華料理屋とか、なんかの冗談かと思ったぞ。っていうか新一が住んでいる街がイメージできない。
  • それに対して田宮良子たちがの‘ネットワーク’(寄生生物たちの互助組織的な感じで劇中では説明されてる)が使っている施設つーか…屋敷つーか…何の建物なの? あの比較的新しめの大学講義棟みたいな建物
  • 新一の生活圏=昔ながらのスタイルが残った街=人間味。寄生生物の建物=無機質で人間味のない場所、みたいなイメージを作りたかったのかな…?
  • だとすると、それは岩明漫画の実写化としてどうなのよ
  • 岩明漫画の特徴は、特に現代日本を舞台にしているときには、服装とか建物とか、そういう時代によって移り変わりやすいアイテムがわざと味気のないベーシックな感じでしか描写されないところ。それが寄生獣が時代を超えて読まれる一要因かなと思ってた。身の回りや環境がベーシックに描かれている(時代をあまり反映していなく、いわば現代日本だと最低限わかる程度のディティールしか持っていない)からこそ、その中で展開されるドラマが映えるっつーか…。
  • 普通の食事で生存可能か実験をする田宮先生に対して島田が、「気持ちわりー」。いや、人一人平らげるほうがよっぽど消化器系に負担ありますよね。
  • 犬が登場しない。故に、中華料理屋の寄生生物をミギーが見て「ヒトを食べるのが寄生生物の性質」と分かる理由がない。
  • 犬の脳を乗っとった寄生生物は犬。人の脳を乗っとった寄生生物は人を食べる、というのが必要。山崎貴はマヌケ。

あと最後に

 

あなたのための「幸福とは何か」

あなたは今日も自分が幸福ではないと考えている。
いや、今日も幸福になれなかったと考えている。

あなたのこの一週間は最悪だった。
月曜日にはあなたのボスが火曜日の会議で使う資料の作成を、帰宅後に命じられた。
火曜日には東京へ出張した帰りに、コードを書いた人物が死んでしまったためにブラックボックスと化したプログラムを「なんとか別のPCで使えるようにしてくれ」、と頼まれた。今週末までに。
水曜日には事務方のミスで紛失した提出書類を、微修正とともに5回も持って行ったり持ち帰ったりを繰り返させられた。木曜までに作成しなければならないデータを作る邪魔だった。
今日あなたは作成したとあるデータをプリントしようと大型プリンターのある部屋まで行ったが、夏前に故障したFUJI XEROX製のそれはまだ修理が終わっていなかった。おかげで別の部署所有の大型プリンターを借りて印刷しなければならなくなったが、なぜかそれは最新のドライバをインストールしてもまったく微動だにしない。おかげで昼すぎから印刷すれば多少トラブっても夕方前には終わるだろうという目論見のもとに予約した映画のチケットは無駄になってしまった。そして、あなたはまだそのプリンターの前でこのブログを書きながらどうしたものかと家にも帰れず困っている。

幸福とは到底思えない。

あなたは今日も先週TSUTAYAで借りた8枚のDVDのうち1枚をも観ることはできないだろし、ここ数日忙しさのあまり食生活は最悪だ。
気がつけばコンビニくらいしか開いていない。あなたはもういい年齢だというのに学生時代と同じ食生活を送っているから、いまだに吹き出物は顔に出るし、腹も出る一方だ。そのことが厭で多少の運動も始めてみたものの、それもこの忙しさでせっかくの決意も台無しだ。

食事は三食欠かさずとっている。コンビニで買ってきたもの、だけど。
貧しい食生活なのかもしれない。あなたが好んで作る中華料理やカレーなどを食べているときに比べたらーーーいい年の独身男が、自分が食べるためだけにあまり品揃えの良くない地方都市の平凡なスーパーで揃えた食材で作っているから、それだってそんなに有り難みのあるものではないのだろうけど。

たしかに、豊かではない。食事をする際の精神的余裕ーーー食べるまでの過程、何を作ろうか吟味して食材を選び、キッチンで調理して、出来上がるまでの時間にお皿に乗ったものを想像するところまでを含めて。

何が食べたいか、食べたいものを買って食事のできるところまで帰るその道程。
あなたのつい先程コンビニエンスストアで買ってきたものは、あなたのお気に入りの標品である。
あなたはこんな何もかも思いどおりにコトが進まなくて、余裕がない夜にも食事だけは、まだ自分が楽しむことのできる優雅な時間だと考えることができている。いつもよりは限定された選択肢しかない、たった一件のコンビニではあるけれど、あなたは何を口にしたいか想像を働かせ、それに最も近いものを探し、あるいは意中のものがなければどうしたら代替でも自分が満足するか選択に工夫を凝らし、買い物を済ませた。

コンビニからまた暗い印刷室に戻る道すがら、あなたは少し楽しかったはずだ。

あなたは「幸福を感じることができなくなっている」ーーーこういう言い方もあるだろう。
幸福の感度。
幸福の閾値がもし不変であるなら、あなたをとりまく状況からあなたの抽出する幸福の量自体が減っていることになる。
だが、あなたを取り巻く状況や環境といったものはそんなに変化しているのだろうか。
あなたは振り返って思い出してみる。

もし、あなたを取り巻く環境がずっと前からこうであったとするなら、あなたの幸福に対する閾値が上がっているだけなのではないか。
順応とは、そういう現象である。

あなたは食事をすれば美味しいと思えるし、腹も出るくらいには食べるのに困っていない。一応、仕事もあるし、現にしている。だから給料が出ている。残業代も僅かながら貰っている。本も漫画もビデオも、滅多矢鱈には買えないが、選んで買えば満足もできるし、第一そんなにたくさん買っても消化しきれない。

幸福とは、受け取る側の問題だ。とは詭弁なのかもしれない。
使い方ーーーというか、誰がどんな意図で言っているのか次第なのだと思う。
けれど、あなたがそれをあなた自身に向けて言うかぎりにおいては、それは有効だ、とあなたは考えている。

そもそもーーーあなたが幸福だと考えるのは誰でもない、あなた自身でしかない。
あなたはあなたの状態、環境、境遇を幸福だと考えてもいいし、不幸だと考えてもいい。それは他の誰にも関係のないことのはずである。
どこかの誰があなたを不幸だと考えていてもあなた自身が幸福だと感じるのなら、あなたにとってはそのように考えるほかないのだ。
要は自分次第なのではないか。
あなたの幸福はあなた以外にはあまり関係ないのだし、誰かと比較しても意味がない。あなたは他人の幸福を感じることはできないのだから比較のしようがない。

だから、あなたはあなたが幸福だと感じるように考えていかなければならないのだ。あなたがそれを求めるのなら。

はてなスターとその銀河、宇宙

あなたは今日も新たな星がはてブに誕生したことを知る。
16進の色コード#C40017の赤で描かれた円は、はてなからの通知としてあなたが最もよく目にし、もしかしたら心躍らせるものかもしれない。
そのひときわ目を引く色使いとは対照的に、はてブに新たな星が誕生した瞬間のことはあなた以外知ることはないだろう。新たな星を生み出したその人以外には。

はてなスターが誕生してからいったいどれだけの星がはてな宇宙に誕生しただろうか。
星がどれだけ誕生しても、その瞬間を知るのは、あなたと星を生み出したどこかの誰かのたった2人だ。
あなたはその人と繋がっただとか、承認されただとか、受け入れられただとか、思うことだろう。星がどのような意図で生み出されたかは別にして。

銀河を見る人にとって、一つ一つの星は大して意味を持たない。
星は一つ一つ見れば、誰のものか、何についているのか、確かに違う。
星がなければ銀河は、あなたが宇宙に見る輝きは存在することができない。
けれど、銀河とは星が無数にある様を指すのであって、そのうちの一つが欠けてしまっても依然として銀河は銀河としてあなたの目の前にある。

星は誕生したときのみあなたとそれを打ち上げた誰かにとって意味を持つのだ。

次々と生み出され、あなたに放たれる星によって、あなたが得た(そして誰かが放った)一つの星は過去のものとなる。あなたの今獲得した星は、次にあなたが星を獲得することで銀河に吸い込まれてしまうのだ。

はてなスターには今という時間しかない。
今ある星と、かつてあなたと誰かが誕生の瞬間を共有した星しか存在しない。

星が生まれた瞬間、あなたはあなたと星を生み出したたった一人で何を共有する?

ところであなたは星の存在理由を知らない。
あなたははてなスター追加ボタンをクリックした誰かと星の誕生する瞬間を共にしたが、なぜ星が生まれるに至ったか、それは知ることはできない。

あなたははてなブックマークにコメントを残した。
もしかしたら、あなたはそのブコメTwitterにも流しているかもしれない。

あなたのブコメはあなたが考える限りの思考と智慧を組み上げて書いたブランニュー面白いことかもしれない。
あるいは、あなたのブコメは怒りや悲しみや何かあなたが持つ原初的な感情を込めて残した心の叫びかもしれない。
もしかしたら、あなたはそのエントリに何か重大な欠落や齟齬を見つけて、啓蒙的に書いたものなのかもしれない。

だが、あなたは知っている。あなたの言葉や声が常にあなたが考える以上にあなた以外の人にとって大した意味も影響もないことを、あなたは知っている。
星と同じようにーーー無数の人が無数の言葉を紡ぐ全体から見れば、あなたの言葉は全体を構成する一部だが、唯一一つの言葉ではないように。

あなたは知らない。何が人にとって面白いーーー新しい言葉であるか。何が星を持つべき価値のある言葉であるか。

あなたには判断ができる。このブコメは面白い。このブコメは上手である。このブコメは何か新しい表現をしている。スターを与えるべきだ。与えたくなる。与えてなければならない。その判断はしている。はてなスターを生み出すことよって。

けれどあなたには何が、自分の言葉の何が人にとって面白いことか、意味のあることか、感心を与えることのなのか、それが分からない。

何も星がほしくてはてブを使っているわけじゃない。そういう人もいるだろう。けれど、あなたにとってはその使い方は、その言葉は当てはまらない。
増田やメタブックマークやどこの誰かも分からぬ人のたった1つのツイートをわざわざブックマークして、あまつさえそこにコメントを残しているあなたは、やはりあなたの言葉が誰かに受け取られたことを確認したいのだ。

星をほしがっているのは、多分そういうことなのだろうとあなたは考える。
ならば、分かち合っているのはあなたのブコメにコメたあなたのロジックなのだ。

だから、あなたのロジックが無数のコメントに吸い込まれたとき、あなたは宇宙にたった一人であることを知るのだ。

誰だって頭の中ではヒトゴロシ

先日、このようなエントリにブコメした。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない - はてな村定点観測所

はてなブックマーク - cloq : 「ある個人的理由でなら人を殺してもよい」というのを認めるわけにはいかないから「何のためであっても殺してはいけない」と決まっているのだろうなぁ…。個人には大きすぎるから、せめて国家(法律)が負っている。


これはなぜ殺人がルール(法律)において禁止されているかについての僕の考えだ。
だからヒトサマが自らの考えや信念に基いてコロシをするにあたっては、途端にこの考えは無効化される。

死ななくてはならない。殺すべきだ。殺してやろう。なぜならーーー。

と、このようにコロシにあたって人の行動は「個人的理由」に支配される。
そのような世界ではコロシが「いけない」という考え方はない。
法律や道徳観念や罪悪感は、素朴な印象としてヒトゴロシをする上で足枷になる、と誰もが考える。
けれど、それは他者や過去の自分と対峙するときにはじめて意味を持つのだ。
自分がセカイの中心であればーーーセカイに自分しかいなければ、自分の納得するルール以外に意味のある規範はない。
道徳観念は、それこそコロシを肯定してしまうかもしれない。なぜなら、あいつは死ななくてはならない。
罪悪感は、そもそも罪を犯した意識もなければ、邪悪なコトだという認識もない。あれはなぜそんなヨコシマなことをしてしまったのか、ルールを破ってしまったのか自分でも説明のつかないときの、一種の後悔のようなものだ。だから、何か取り返しの付かないことをしてしまった人の罪悪感は一生消えることがないし、コトがすっかり元通りになった程度のことなら、反省という形で振り返り、罪悪感はより小さいはずだ。
そこには他者の存在はなく、確固たる自分しか存在しない。
他者はセカイの構成要素にしかすぎなく、中心にはセカイをどこまでも支配する自分しかいない。
なぜ人を殺してはいけないのかーーーと問われれば僕の答えはこうである。

「いけないことはない。君の自由だ。君が真にセカイの中心であるなら。
 ただーーー」

世界にはセカイがいったいどれほどあると思っているのか。
人の数だけセカイがあって、そのどこでも死んでもよい、消えてほしい、殺してやろうか、とセカイの構成要素から外してもかまわない存在はある。ただ、あるセカイで切り捨てられても、別のセカイでは切り捨て不可能な重みを持っていたり、中心そのものであるはずだ。
当然だ。セカイとセカイの間(世間)では切り捨て可能な人間が違う。ある世間では切り捨ててもよい人間が重なることもあるけれどーーー。
世間はある程度多く集まってできたのが社会だ。
「コロシをしてもいい」条件なんて、どんな理由であれ認めてしまったら世間がそれを認めないのだ。理由のあり方によっては、社会がそれを許さない。

社会が認めるコロシならいいのか。
それがすなわち死刑であり戦争(における殺人)であり、ときには虐殺であるのだろう。
社会にまで拡張された「殺してもよい理由」に自分(=セカイ)というものは含まれているのだろうか。
それは、“こうルールで決まっているから殺してもよい/いけない”、という考えに還ってくるのではないか。ならば、コロシに許される/許されないを考えるのにあたって個人的理由は一切関係なくなる。いや、ルールと個人の動機が接点を持たないのなら、セカイで肯定された考えとしてコロシをすればいいだけの話だ。

その結果を引き受けられないならーーーやはりヒトゴロシはすべきでない。
誰もがその結果を引き受けられないから、ルールでシテモヨイ殺しが決まっているのだ。